リー・コニッツの歌はいつも空から聞こえてきた by 太田 剣
Photo: © Patrick Hinely / ECM Records
Text by Ken Ota 太田 剣
そのCDをかけると、少し暗い街角の石畳に空から光と天使の歌が降りそそぐ。そこにリー・コニッツが居る。いま彼はどこに居るのだろう?
蔓延するウィルスから自分や周りの人々の命を守るため、演奏も外出も控える生活のさなかにリー・コニッツの訃報を知って、またこのCD『Angel Song』(ECM1607)を聞く。 5秒間のECMサイレンスからスーッと始まる1曲目「ニコレット」。ビル・フリゼールが光を敷き、ケニー・ホイーラーが先導した場所へ、コニッツが現れて歌い出す。こんなに聖らかなアルトの音を他に知らない。これを聞くたび、12年前の2008年7月の夜、六本木ミッドタウン「ビルボードライブトーキョー」で見た光景が脳裏に蘇るのだ。
マイクもモニタースピーカーも無い。PA機材一切合切を取り払ってピアノとドラムだけが置いてあるシンプルなステージ。その背後は一面ガラスばりで、そこに見える六本木の夜景の中に御年80歳、白い髪、白い眉のリー・コニッツが立っている絵面は、アメリカ映画の名作「素晴らしき哉、人生」に出てくる守護天使クラレンスの1シーンさながらだった。そして、あのアルトサックスの翡翠のような音色が頭上から降ってくる。俗世の何の呪縛も受けていないような驚くべき純粋さのまま、淀みなくメロディを奏で続けるその音は、こちらの想像力如何を問わないほどの天使性に満ちて輝く。
ダン・テプファー、リッチー・バーシェイとのベースレス・トリオで、「C」音をトーナリティーとした即興フリー40分。「ああ、この曲から始めるんだ」と、ともすると既知の情報のいずれかに結びつけて巨匠の演奏に対峙する余裕を持ちたがってしまう、そんな探求の初心忘却は軽くいなされた。何が起こるか、どこへ行くのか、おそらくコニッツ自身も知らないまま「とりあえず吹き始めてみるよ」くらいの自然体で始まった音楽の旅は、見たことのない風景の道をゆっくりと、ただゆっくりと、同行する我々皆が堪能できるような歩速度で進んで行く。その夜を終えれば、コニッツはまた空を飛んで別の場所に舞い降りて、また歌う。10代の頃からそれを70年以上もやり続けた精神力はさぞ、、なんて考えはきっと的外れだ。ジャズとサックスに夢中になった少年がそのままやりたいことをやり続けた、そんな92年の生涯だったのかもしれないと仮想すると、なんだか至極納得がゆく。
コニッツのインタビュー本『リー・コニッツ:ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』の「イントネーション」の項で彼はこう言う。「私が自分のサウンドで獲得した何かしら輝かしさのあるような部分というのは、ピッチ(音高)の最高域にいたことがその要因の一部だと思う。私にはただそういう風に聞こえるんだ。(中略)ケニー・ホイーラーと随分仕事をしてきたが、どちらかというと彼はピッチの最低域でプレイする傾向がある。だから本当に慎重にやらなければならなかったし、さもないと二人一緒になったら、ひどくピッチの合っていないサウンドになる可能性があるからね。ECMの『Angel Song』のレコーディングでは、私はずっとこの問題を抱えていたんだ。まったく、天使たちはいったいどこにいたんだろうね!」我々でも演奏上、日々直面する極めて現実的なピッチとアンサンブルの技法の話。夢物語は一切ない。現世に居る天使には、きっと他の天使が見えなかったのだろう。
リー・コニッツの魂よ、安らかに。明日もまたあなたの歌を聞こう。
太田 剣 Ken Ota
ジャズサックス奏者。1970年、愛知県生まれ。
早稲田大学在学中に池田篤、ケニー・ギャレットらに師事し、大坂昌彦カルテットでプロデビュー。2006年、ジャズの名門『Verve』レーベルよりアルバムをリリース。同レーベルからの日本人サックス奏者としては渡辺貞夫に次いで2人目。国内外のジャズフェスティバルやジャズクラブへの出演以外にも、マイク・ノックから矢沢永吉まで、ジャンルを問わず他アーティストのツアーサポートなどにも参加している。
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