#97 チャーリー・パーカー(続 2) <バップをめぐるパーカーとガレスピー>
Charlie Parker #2

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text by Masahiko Yuh 悠 雅彦

今回は、去る5月に未完のまま執筆を中断していたチャーリー・パーカーに戻ることにしたいと思う。といって、パーカー論からはやや離れてしまったことはお詫びしなければならない。パーカー論については機会を改めて書きたいと思っている。

前回触れたチャック・ヘディックス著(川嶋文丸訳)『バード チャーリー・パーカーの人生と音楽』を読み直した。初めて読んだとき以上に教えられることが多かった。改めて読み直し、パーカーを筆頭にディジー・ガレスピー以下、バップの運動に献身した若いミュージシャンたちの熱意と卓抜な能力があって初めて、バップの革新が実を結んだのだという事実を再確認させられた。その筆頭にチャーリー・パーカーが存在する(した)ことは改めて言うまでもない。

<ビ・バップ/ビバップ Be Bop>なるジャズの革命は、ジャズ史上最大の運動の成果として実を結んだが、そのプロセスでさまざまな興味深い事実が明らかにされている。1例をひとつあげてみたい。トラミー・ヤングの証言だ。「アポロ劇場で人気があったブルース歌手のラバーレッグズ・ウィリアムズをフィーチュアしたブルース・セッション(1945年1月4日)だった。私たちはコーヒーを飲んで寛いでいた。パーカーはその夜、あまり調子が良くなかったので、ベンゼドリン吸入器を取り出した(当時はみんなベンゼドリン吸入器を持っていた)。バードは吸入器をこじ開けて紙を取り出し、コーヒーに浸した。一方、ラバーレッグズは普通のコーヒーを飲んでいた。ところが、どうした間違いか、パーカーのコーヒーを誤って飲んだのがラバーレッグズ・ウィリアムズ。他方、バードはラバーレッグズのコーヒーを飲んだ。バーカーはつぶやいた。” くそっ、ちっとも効いてこないぞ! 耐性ができたせいかな。気分が盛り上がらない よ” 。他方バードのコーヒーを飲んだラバーレッグズは汗だくになり、” ここは暑すぎる、どうなってるんだ ”とわめいた。とたんに歌は悲鳴のようになった。ディジー・ガレスピーがフラッテッド・フィフスを吹いたとたん、そんな音に慣れていなかったラバーレッグズは叫んだ。” やめろ!”。そしてガレスピーに向かって叫んだ。” 今度俺の背後でそんな変な音を出したらお前を殺すからな ”。結局、トラミー・ヤングがヴォーカルを代わって担当し、事なきを得た。ヤングは言った。” 私がそれまでに見た中で最高に面白い光景だった。ただし、パーカーとガレスピーの演奏を除いて見るべき成果はこの吹込には何もなかった “という。

” その翌週の1月9日、ガレスピーがリーダーとして臨んだ初の吹込セッションで、彼が ”何の気なしに使った言葉がジャズの新しい流れを言い表す用語になった” 。
彼はオスカー・ペティフォード(ベース)、ドン・バイアス(テナー)らと自作の<ソルト・ピーナッツ>と<ビ・バップ Be–Bop>を含む4曲を録音した。ヘディックスによれば「Be Bop」は ” 自分のフレージングの構造をサイドメンに口頭で伝えるときに使う音節を組み合わせた言葉だった。彼はいつもハミングによって自分が話していることを相手に分からせようとしていた ” とバド・ジョンソン(チューバ、バリトン・サックス奏者)は説き明かした  そうだ 。この描写でガレスピーのリーダーとしての初吹込が1945年1月9日であり、それ以上にビ・バップ(ビバップ)という言葉を彼が生み出したことが明らかになったという1点については、やはりそうだったかと合点がいった。初吹き込みが1944、5年であるとは大方の識者が指摘していたことだったが、チャック・ヘディックスの著作『バード』で明らかにされたことになる。

バド・ジョンソンは言った。「プレーヤーは譜面を読むのに慣れていない。ガレスピーはダブル・タイムで書いたが、リズムはこんな風に進行する(リズムをハミング)。だから、プレーヤーは”ワン・トゥ、スリー、フォー”という動きに対してダブル・タイムの感覚を感じ取らなければならない。そして16分音符の流れや、16分休符、32分休符などを読み取らなければならない。そんないきさつから、その曲にはバップという名前がつけられたんだと思う。彼はこの音楽を ” ウープ・バップ・タ・ウープ・ア・ラ・ドゥー・バップ・ダー・バ ”とハミングした。みんなは ”そのビバップをもう一度やってくれ ”と言った。彼が ”ビバップ  ”とハミングしたからだ。彼は演奏する感覚を掴ませるため、歌って示す必要があったんだ。」

進歩的なジャズ愛好家が積極的に狼煙を揚げはじめたのも、まさにこのころからだったろうと推測できる。たとえば、ニューオリンズ・スタイルの小さな編成のコンボの活動が活発になり、ルイ・アームストロングを頂点とする歴史的ディキシーランド・ジャズを愛好するファンは同時代のスウィング. ジャズを否定し、本来の黒人文化に根ざした集団即興的で、かつ黒人の歴史や文化、すなわち本来のルーツに戻って民族音楽的な根源に根ざした正統的なルーツに戻らなければいけないと主張したのである。その結果、そうした批判の矛先は当時のジャズ・ジャーナリズムに向かい、中でも「ダウンビート」誌を筆頭とするメジャーなジャズ誌を中心とする大手のジャズ・ジャーナリズムにはびこる権威主義的な論調や方向性が槍玉にあがったことは言うまでもない。

そうした中で、「メトロノーム」誌で強力な論陣を張っていた著名なバリー・ウラノフは、ディキシーランド・ジャズこそがジャズの本道であると声高に主張する復古主義者たちを「モールディー・フィグ」( moldy figs /古臭い連中、カビ臭い輩)と呼んで強く批判した。それは何とかの第二次世界大戦(1939~1945)中のこと。この論争が日本の敗戦で終結した世界大戦の最中(さなか)のことだったとは、のちにジャズを謳歌することになる日本にとって何という皮肉な結末だったことかと思わざるを得ない。この歴史的経緯については、バーナード・ジェンドロンからマーシャル・スターンズ、レナード・フェザーら多くの批評家や学者が指摘しているが、やがてリロイ・ジョーンズやラルフ・エリソンら黒人、すなわちアフロ・アメリカ人の作家や識者も入り混じったジャズについての闊達な論考が戦わされるようになった時代や社会の動きを、的確に捉えて論じなければならないだろう。中でもリロイ・ジョーンズの『ブルース・ピープル』には、とりわけブルースはむろんジャズにおける米社会でのアフロ・アメリカ人の創造、寄与、貢献がストイックなほど辛辣に論じられている点で、その考察には一読しておく必要がある。ジャズの音楽家たちはクラシック音楽から少なからぬ影響を与えられたが、スコア(譜面)に重点を移したスイング(swing)時代の音楽とその前後の時代のジャズとの格差が、当然のことながら、たとえばスイングと次のビ・バップ(be bop バップ)との間にただならぬ断絶を生んだことには、注意を払っておかなければならない。譜面に依存するジャズには相応の限界があることは言うまでもないが、それ以上に「即興」が黒人音楽、すなわャズの決定的な要素であり、いわば他の文化との本質的違いだったことを認識することこそが重要だということになる。私自身は譜面を否定までしようとは思わない(わが国のビッグバンドの名門、往年の原信夫とシャープス&フラッツや宮間利之ニューハード・オーケストラの奮闘を想起していただきたい)が、過度に譜面を重視する傾向だけは回避しなければならないと思っている。「即興」こそがジャズの本質であり、スイング音楽ではその「即興性」が軽視され、大きく後退していたことになるだろう。

5年前(1940年)カンザスシティで初めて出会って以来、ひとつに重なった音楽の道を歩んできたパーカーとガレスピーは1945年の春、ついに手を結んでスリー・デューセスに出演した。ガレスピーはしみじみと回想した。「パーカーと一緒に出演したスリー・デユーセスで、私たちの音楽は完璧の極みに達した。彼と私は気持ちが通じ合い、エクスタイン・ビッグ・バンドでの共演を経て、ようやく私たちの音楽に理想的なセッティングのクインテットを組むことができた。メンバーはヤード(パーカー)、マックス・ローチ、バド・パウエル、カーリー・ラッセルだった。いつも火の出るような演奏をしたよ。---バド・パウエルはビバップ時代の最高のピアニストだった。流れるようなフレージングが素晴らしく、誰よりも私たちのグループにぴったり合っていた。パーカーと私はうりふたつだった。彼の音楽と私の音楽は、まるで塩を米に振りかけるように、うまく調和した。私たちほどそっくりに演奏したプレーヤーはどこにもいなかった。パーカーは音の明瞭さが際立っていた。一つの音から次の音へと移るときのスムーズな流れは、私には真似できなかった。私はロイ・エルドリッジがやったことを足がかりにして自分のスタイルを開拓した人間だーーー他方、私たちの音楽におけるフレージングの基準、明瞭な音の出し方の基準を打ち立てたのがチャーリー・パーカーだったことは間違いない」。

「5年前(1940年)にカンザスシティの19番通りとヴァイン・ストリートの角で初めて出会って以来、ひとつに重なった音楽の道を歩んできたパーカーとガレスピーは、1945年の春、ついに手を組んでスリー・デューセスに出演した。彼らのスモール・コンボは形成されつつあった音楽スタイルの基準を設定した。ガレスピーは次のように回想する」。

バリー・ウラノフはこの1945年5月(タウン・ホール)のコンサート評で書いた。

ジャズは改めて強調するまでもなく「即興」を生命とする音楽である。クラシック音楽との最大の違いはここにある。ジャズはその誕生以来、幾多の革新的で創造性に富む音楽家や演奏家を輩出してきた。ルイ・アームストロング然り、レスター・ヤング然り、バド・パウエル然り、セロニアス・モンク然り、オーネット・コールマン然り。では、モダン・ムーヴメントの立役者となったミュージシャンの旗頭たるチャーリー・パーカー(1920.8.29~1955.3.12)はどうか。パーカーはむろん今あげたミュージシャンたちに勝るとも劣らぬ偉大な貢献を通してジャズの偉大な発展に尽くした演奏家である。彼の働きと貢献がなければ、影響力は極めて限定的か、あるいは尻すぼみに堕した恐れがあったかもしれない。バップ(ビバップ)はパーカーやガレスピーの音楽を通して発揮された革新性を通して、その作業が自発性の文化としての特性を持つにいたったのだ。黒人音楽の特殊性を論じるとき、「即興性」を軽視あるいは無視することは許されない。かつてアメリカ文学の専門家、大和田俊之氏は、1930年代の後半、ある価値観を共有するグループを形成した人々が、「同時代のスウィング・ジャズを否定し、ジャズは本来の集団即興的で黒人文化に根ざした民俗/民族音楽的なルーツに戻るべきだと主張した」という動きを紹介したことがある。このときダウンビート誌などの大手ジャズ誌が批判の矢面に立たされたことをきっかけに激しい論争が始まったことはよく知られている。先に紹介したバリー・ウラノフの批判的言動「カビ臭い輩」(moldy figs)を巻き込んで、1942年ごろからこの論争が展開されたことは銘記されてよい。

*チャンの回想(以下はすべてチャック・ヘディックス著『バード』より抜粋)。

「1955年3月9日の水曜日、パーカーは演奏のため ジョージ・ウィーン(ニューポート・ジャズ祭のプロデューサー)が取り仕切るボストンのストリーヴィル・クラブに向かう途中で体に異変が生じ、ニカの住まいに立ち寄った。ニカは回想した。「最初におかしいと思ったのは、何か飲むかと訊いて彼が断ったときだった。数分後、彼は血を吐き始めた。私は医者を呼んだ。医者は出かけてはいけないと言ったが、バード(パーカー)は演奏の契約があるので、どうしても行くと言い張った。彼は病院が嫌いだし、入院はもうたくさんだと言って拒んだ。娘と私が交代で24時間そばに付き添い、彼を見守った。用意した大量のアイス・ウォーターを彼は全部飲み干した。いくら飲んでも乾きは収まらなかった。彼はときおり水と一緒に血を吐いた。そんな状態で1、2日が過ぎた。1955年3月12日、気分が良くなったチャーリーは起き上がってテレビを見た。トミー・ドーシーのショウ番組だった」。

*回想は続く。

「バードはドーシー兄弟のファンだった。彼らのファンであることになんの違和感も抱いていなかった。” ドーシーは素晴らしいトロンボーン奏者だ” と言っていた。ゲストの曲芸師たちが芸の最中に商売道具のレンガを落とした。私たちは大笑いした。バードもゲラゲラ笑っていたが、息を詰まらせ始めた。そしてむせた。私は医者を呼んだ。彼は椅子に座ったままぐったりしており頭は前に垂れていた。すでに意識がなかった。脈はまだあったが、まもなく止まってしまった。彼が死んだのは明らかだった。彼が息を引き取った瞬間、雷が激しく鳴り響いた。あとになって何度もそれについて考えた。不思議な符号だった」。

かくしてまだ34歳だったパーカーは内臓鬱血に起因する大葉性肺炎で亡くなった。彼の酷使された体を調べたフレイマン医師は、彼の年齢を53歳だと推定した。

*チャンの回想がさらに続く。

「ハーレムのあらゆる人々が顔を出していた。ファンに混じって、礼服で身を包んだポン引き、麻薬の売人、娼婦がいた。棺は大きな花の装飾に囲まれており、私が飾った小さなヒナギクの花束は派手な花畑の中に埋もれてはかなげに見えた。オルガン奏者が<ザ・ロスト・コード>を演奏(パーカーは生涯で一度もコードを見失わなかった !! )。リコリッシュ大司教は静かに ”チャーリー・バード”がいかに素晴らしい男だったかを語った。長々と儀式が続いた。その間、ミンガスは私の耳に、棺に中にいるのはバードじゃない、と訳のわからないことをささやいた。彼の言葉の意味を理解したのはあとになってからだった。汗をかいているテディ・ライグ、取り乱した表情のレナード・フェザー、そのほか私の知らない人々に担がれて、棺は私の前を通り過ぎた。階段を下りるとき、誰かがよろめいて棺があやうく落ちそうになった。

名目上の棺担ぎ人としてそばにいたレニー・トリスターノが本能的に手を伸ばして棺を支えた。棺はカンサスシティに運ぶため霊柩車に収められた」。(2020年10月4日記)

悠雅彦

悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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