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R.I.P. / 追悼Column~No. 201GUEST COLUMNR.I.P. トマシュ・スタンコ

「トマシュ・スタンコ・クァルテット」アジア・オーストラリア・ツアー・レポート

text by Henk van Leeuwen ヘンク・ヴァン・リューエン(プロモーター)

トマシュ・スタンコ=略歴
1942年生まれ。
ポーランドが誇るジャズ・トランペッター。前衛的ジャズの第一人者。
1960年代、ジャズ・デアリング・カルテットのリーダーとして活躍後、
ポーランドで人気のトシャコフスキ&コメダ・バンドで注目を集める。
1967年には自らクィンテットを結成、1973年まで活動を続け
ポーランドのモダン・ジャズ界有数のバンドに成長させる。
その後、コンセプトに応じて様々なミュージシャンとの共演を重ねると同時に、
活発なソロ活動を展開。90年代にはECMレーベルから作品を多数リリース。
一方、映画や演劇用の音楽を多数作曲。これらはスタンコ作品の中でも重要な位置をしめている。
(駐日ポーランド大使館のHPより転載)

代表作:
「バラディナ」(1975)
「マリアとの別れ」(1993)
「尼僧ヨアンナ」(1995)
「フローム・ザ・グリーンヒル」(1999)
「ソウル・オブ・シングス」(2003)
「サスペンディッド・ナイト」(2004)

今年(2005年)10月から11月にかけて行われたトーマス・スタンコのアジア/オーストラリア・デヴュー・ツアーを手短かにレポートしよう。
ECMの諸作でお馴染みのポーランド出身のベテラン・トランペッター、トマシュ・スタンコ が、10月末から11月にかけ、東京、オーストラリア(ワンガラッタ・ジャズ・フェスティバルとシドニー)、韓国ソウルでデヴュー・コンサートを行い、各地では世界の最前線を走り続けるこの偉大なトランペッターの待望の生演奏に接し、その熱演振りに一般聴衆も批評家もこぞって熱狂的な拍手で歓迎した。
このツアーは、オーストラリア在住のオランダ生まれのプロモーター、ヘンク・ヴァン・リューエン  が企画制作したもので、彼は過去に、ヤン・ガルバレク、故ニルス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン、ニュー・ジャングル・オーケストラ、 デンマーク・ラジオ・ビッグバンド、トリオ・トウケアット、ユッカ・ペルコなどの他、トップクラスのデンマーク、フィンランド、ノルウェー、スエーデンのアーチストをプロモートしてきた。
トマシュ・スタンコは独自のサウンドとスタイルを持ったトランペッターで、2002年に<ヨーロッパ・ジャズ・プライズ>を、2003年と2004年には最優秀国際アルバムに授与される<オーストラリア・ベル・アウォード>を受賞しており、この受賞がきっかけとなりプロモーターのリューエンによる彼のクァルテットのオーストラリア公演が実現したのだ。オーストリアと東京、ソウルというパターンはリューエンが2000年と2004年にヤン・ガルバレクのグループで敢行したものと同じルートである。
トマシュ・スタンコに同行した3人の素晴らしいミュージシャンはスタンコからみれば息子ほどの年令の開きがあるが、すでに10年ほどの共演経験があり、2003年と2004年に発売されたECMの2枚のアルバム、『ソウル・オブ・シングス』と『サスペンディッド・ナイト』が世界的評価を得るにあたって大いに貢献したのである。

レコーディング・メンバーでもあった今回のツアー・クァルテットは以下の通りである;
Tomasz Stanko — trumpet  トマシュ・スタンコ(トランペット)
Marcin Wasilewski — piano  マルチン・ボシレフスキ(ピアノ)
Slawomir Kurkiewicz — bass  スワヴォミル・クルキェヴィッツ(ベース)
Michal Miskiewicz — drums  ミハウ・ミスキェヴィッツ(ドラムス)

今回のツアーは10月26日のポーランド大使館での演奏から始まった。これは日本のジャズ・メディアとプロモーター、それに各国の要人のために特別に企画されたショーケースだった。もちろんこのコンサートは、ポーランド大使館が主催したものだったが、大使館のコンサート・ルームで行われた文化イベントとしては最大のものとなった。会場は大勢のゲストで埋め尽され、ポーランドからのジャズ大使をひと目見ようと階段は立見客やら座り込む客で鈴なりとなった。われわれにとってまさに忘れ得ぬ一夜だったといわねばならない。かくしてトマシュ・スタンコはしっかりと東京にその刻印を押し、ジャズ・メディアがその当夜の光景を正しく報道してくれるなら、またわれわれ自身もその努力を怠ることがなければ、トマシュ・スタンコは一般公演のために東京に戻って来ることができるだろうし、またそう希(ねが)いたい。

東京の二日後、オーストラリアはメルボルン近郊でジャズ・ウィークエンド(10月29/30日)としてワンガラッタ・フェスティバルが行われ、レセプションでも大歓迎を受けたトマシュ・スタンコはヘッドライナーとしてこのフェスティバルをオーストラリアきってのイベントに仕立て上げた。トマシュ・スタンコ・クァルテットはワンガラッタ・タウンホールを2夜にわたって満員の客で溢れ返らせ、現地のカテドラルで行われたサンデー・アフタヌーン・コンサートにも満員の聴衆を集めた。各会場に多くのプレスが詰め掛けたが彼らのレポートの一部を末尾に紹介したいと思う。

11月1日にはシドニーのセント・ジェームス・チャーチでコンサートが行われ、満員のオーストラリアとポーランド系移民の聴衆を充分楽しませることができた。2日後にはツアー最後の公演がソウル市のスンナム(城南)・アート・センターで行われた。ここは新設の多目的ホールで老若のジャズ・ファンが詰め掛けた。ECMは韓国にもディストリビュータを持ち、ショップでもECMのアルバムを多数見かけることができる。韓国のファンの特徴はとてもオープン・マインドで、ジャンルを問わず良い音楽であれば未知のアーチストでも暖かく迎えてくれることだ。彼らの反応を見て次回も必ずソウルに戻ってくることができると確信することができた。

*写真は、11月1日のセント・ジェームス・チャーチ(シドニー)のコンサートから

現地のコンサート評から(要約):

○「The Age」紙(メルボルン)
ポーランドのトマシュ(トーマス)・スタンコは、内在する美しさを輝かせるために自らの音楽を究極まで解体してみせるというまったく独自の表現の自由を披瀝した。トマシュが帯同したトリオの反応性も卓越しており、彼らがトマシュの息子に近い年令であるという事実が信じ難いほど深いレベルでトーマスと音楽的会話ができるという秀でた能力を見せつけた。トマシュのトランペットは時に鋼(はがね)のように強靱で、時にはきわめて繊細という表現力の幅の広さを見せ、驚異的なピアノのマルチン・ボシレフスキの率いるトリオと一糸乱れぬタペストリを紡いでみせた。(ジェシカ・ニコラス)

○「Sydney Morning Herald」(シドニー)
ステージに上がった彼らは先生と3人の生徒という風情に見えたが、トランペットのトマシュ・スタンコとポーランドの若手3人組は演奏が始まるや、自分たちが現在のジャズの一翼を担っているという気概を見せつけた。マイルス・デイヴィスの1959年の傑作『カインド・オブ・ブルー』を21世紀に甦らせ、リズムの柔軟性と劇場性をさらに強調したものといえば、彼らの音楽を想像してもらえるだろうか。スタンコの演奏するメロディーとソロは、時には船が滑るように気持ち良く流れて行くが、突然、陽光が雲を突き破って輝き出すように、燦然(さんぜん)たる銀の流れを鋭く噴出する。それはトランペットという楽器の持つ特技といえよう。
彼のテクニカルなアプローチと音色はつむじ風のように不断に変化し、リスナーの感情のひだを分け入って奥深くまで忍び込ませるレベルに達している。2枚の傑作アルバム『ソウル・オブ・シングス』と『サスペンディッド・ナイト』から、スタンコ独特のロマンチックな楽曲が寸分の隙も無い正確さと高いドラマ性を帯びて演奏された。一方、若手3人組はこの現役の偉大なジャズ・ミュージシャンに従属することなく、単なる伴奏をはるかに超えた内容で不断に応えた。ピアニスト、マルチン・ボシレフスキのソロはつねに想像力に富み、時にはあの偉大なウイントン・ケリーの扇情的な推進力を彷佛とさせた。ドラムスのミスキェヴィッツとベーシストのスワヴォミル・クルキェヴィッツからなるリズム隊は、抑制力を利かせつつ、グルーブ、カラー、テクスチュア、ダイナミクスなどあらゆる面で充分貢献した。
素晴らしいコンサ-トであった。ただひとこと付け加えるならば、彼らがアルバムで見せたあの魅力的な頂点に達し得なかった理由は、生徒が先生に見せたわずかな配慮にあった、といえよう。(ジョン・シャンド)

*初出:JazzTokyo #36  (2005.12.05)

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