#2162 『山㟁直人+石川高+アンドレ・ヴァン・レンズバーグ/翠靄(Suiai)』
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Naoto Yamagishi 山㟁直人 (percussion)
Ko Ishikawa 石川高 (笙)
André van Rensburg (尺八)
1. Suiai I
2. Suiai II
Recorded & produced by André van Rensburg
Cover art by Olaf Bisschoff
武満徹は雅楽について「音がたちのぼるという強い印象、不可測な形而上的時間性の秘密」があると評し、それが笙の音からくるものではないかと語っている(*1)。たしかに透明さも濁りもある笙の和音にはそのような不思議な魅力がある。石川高は西洋楽器のように他者の音に呼応して当意即妙に自身の音を発するのではなく、より長い時間感覚をもってゆったりとサウンドに層を重ねてゆく。ときに層の色や濃さを変えてみせるところがエキサイティングでさえもある。笙は匏(ふくべ)に差し込まれた多くの竹管に金属のリードが付けられた楽器であり、演奏中であっても頻繁に乾燥させなければならない。雅楽であればその特性は作曲に予め反映されるところなのだろうが、即興演奏においては乾燥の過程がサウンドの呼吸と化しているおもしろさがある。石川の演奏を観る者は、かれが微笑みながら電熱器の上で楽器を回す姿がすでに音楽の一部になっていると感じるのかもしれない。
かつて雅楽を含めて日本の多くの芸能は野外や開放性の高い空間で行われてきたのであり、このように野外の雑音が排除された空間においてなされる現代の演奏は、「新たな響きの可能性を追求する試み」であるともいうことができる(*2)。そして、この試みは、尺八、パーカッションとの通常みられないトリオによりなされている。すなわち、石川の演奏はさまざまな面で伝統から逸脱した極めて野心的なものだ。
尺八もまた越境とともにあった楽器である。ジャズとの融合であれば、山本邦山が菊地雅章(ピアノ)、ゲイリー・ピーコック(ベース)、村上寛(ドラムス)と組んだ傑作『銀界』(1970年)が引き合いに出されることが多い。とはいえ、もとより尺八も近代西洋の視線の先にあった。物理学者の寺田寅彦は、「尺八の音響学的研究」(1907年)において、尺八をフレットのないヴァイオリンになぞらえて「音から音への連続した移行を作り出すことができる優れた形をもつ管」だと評している(*3)。本盤でのアンドレ・ヴァン・レンズバーグの音もまさにそのように微細な変化とともに揺れ動き、豊かなヴィブラート、静かでも激しくもある息遣い、口腔の動きの増幅に魅せられてしまう。
レンズバーグも石川も日本の伝統楽器を使い、静寂から音まで、また音から音までをじつになだらかに移動する。かれらはふと音風景のなかに自然に現れては、ときにひとりの世界を提示し、ときに重なっては静かに去ってゆく。風を切るような笙の手移り、思いを込めたような尺八の吹き込みには、聴くたびになにか未知のものを見せられたような気にさせられる。
そして山㟁直人のパーカッションもまたかれらと共通する細やかさをもっている。ビートが不連続ゆえの駆動力をもっているのだとして、山㟁の個性はそれとは対極にあるように思える。聴こえるか聴こえないかというくらいの擦れや震えから驚かされる打音まで、かれの音の幅はじつにひろい。笙の持続音に拮抗する擦音に耳を傾けることは快感でもある。
40分強のサウンドのどの時点もプロセスとして大事なものだが、たとえば「Suiai I」の15分過ぎに演奏が終わったかと思いきや、レンズバーグの尺八が、そして石川の笙が彼岸からふたたび姿を見せ、山㟁がドラマを語る者のように音風景にパルスを与える局面などには、ぞくぞくするほどの迫真性がある。
(文中敬称略)
*1 宮川渉「武満徹作品における雅楽の要素」(『音楽表現学』vol. 16、2018年)
*2 寺内直子『雅楽を聴く』(岩波新書、2011年)
*3 鈴木聖子『<雅楽>の誕生』(春秋社、2019年)