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Monthly EditorialConcerts/Live ShowsEinen Moment bitte! 横井一江R.I.P. 近藤等則No. 295

#34 追悼するということ
「近藤等則 三回忌追悼コンサート」を見て

text & photo by Kazue Yokoi  横井一江

 

今年も多くのミュージシャンが鬼籍に入った。訃報が伝えられる度に、SNSのタイムラインには死を惜しむメッセージ、個人的な思い出、好きなアルバムや写真、YouTubeリンクなどが次々流れてくる。だが、何日かするとタイムラインからその話題はすーっと消えてしまう。情報は早いが、話題性はあっと言う間に失われていくように見える。その度に今どきの情報流通の現実を目の当たりにすることになる。もっとも故人との関係性によって、各々呼び起こされた記憶、思いはそれぞれで、ゆっくりと個々の意識の中に収められるのだろう。

海外ではミュージシャンが物故した時にすぐ新聞等に故人の業績をきちんとまとめたObituaryが掲載されることが多く、批評的にも後々参考になるテキストが書かれていたりする。ある程度予定稿が準備されているのだろう。日本の新聞の場合、余程有名人でない限り例え訃報欄に記事が載ったとしても大きく扱われることはなく、追悼記事掲載の任を果たしているのは雑誌等の媒体だが、業績を詳らかにした記事はもちろん、故人への(個人的な)思いが反映された記事もまた多いように感じる。こういうところにも文化の違いが現れていると言えるのではないか。

誰かが亡くなった時、付き合いのあったミュージシャンが参集する追悼ライヴやイベントが数ヶ月の間に企画されることが多い。ニューオリンズのジャズ葬で言うならばセカンドラインに相当するのかもしれない。生前以上に多くの観客が集まって賑やかだ。稀に何年か経ってから追悼企画が行われるケースもある。それはまた違った意味合いを持つ。

「近藤等則三回忌コンサート」が、その命日である10月17日行われた。出演者は土取利行 (ds, per)、坂田明 (sax, cl)、梅津和時 (sax, cl) の3人。約半世紀前の共演者が四十数年の時間を経て、顔を合わせた。声をかけたのは、1972年近藤と共に上京し、ピットイン・ティールームで演奏を始めた盟友土取利行だ。

近藤等則が亡くなった直後の追悼特集に文章を書いてほしいと頼まれたが書けなかったと語る土取、それほど重たい出来事だったことは想像に難くない。続くようにして、彼の生涯にとって大きな影響を与えた2人、ミルフォード・グレイヴス、ピーター・ブルックが相次いで亡くなっているだけに、その心持ちは余人には計りかねるものがある。その後、カセットテープに残っていた1973年の近藤等則とのデュオの音源を『近藤等則 & 土取利行 / Live Concert Tokyo 1973』(立光学舎)として2021年にリリース、追悼の気持ちを文章ではなく、過去の音源のCD化を通して表した。そして、「近藤等則三回忌コンサート」に先駆けて、『近藤等則・梅津和時・土取利行 / ライヴコンサート1974』(立光学舎)をリリースするに至る。資料(→リンク)によると近藤と土取が上京した1972年にDUOが、そして梅津を加えた「近藤俊則トリオ」(近藤等則の本名は俊則)が結成されたのは1973年。彼らの活動の原点とも言えるこれらの音源がリリースされたことは、当時のフリージャズが持っていた熱量、シーンの一端を知るためにも、空白部分を埋める上でも意味がある。

「近藤等則三回忌コンサート」は新宿ピットインで行われた。上京してまもない土取がピットイン・ティールームで近藤らとセッションを重ねたにも関わらず、土取が新宿ピットインに出演するのは初めてだという。まだ20代だった彼らは、後にそれぞれ異なる道を歩んでいくので、土取と梅津、また坂田と演奏する機会がなく、演奏の場も異なっていたからだ。しかし、40年以上のタイムラグがあるにも関わらず、時間軸を超越したライヴとなった。それは彼らの音楽家としての原点が70年代始めの日本のフリージャズがまだ若く、さまざまな探究が行われていた時代に切磋琢磨を重ねてきたところにあるからに違いない。3人の約半世紀に亘る音楽家としての原点、軌跡、そして今がサウンドの中に凝縮されていた。

追悼にふさわしく、冒頭では近藤のエレクトリック・トランペットが流された。そこに2本のサックスとドラムスが重なっていき、即興演奏が展開していく。途中ドラムスからパーカッションに移動した土取のプレイを聴きながら、グレイヴスの持っていた世界観に土取を通してあらためて触れたような気になった。合間に鼎談を挟みセカンド・セットへと演奏は続く。濃密でありながら、各々屹立したサウンド、フリージャズの本懐というべき演奏だ。ふと目を上げたところに立っていた坂田の雄姿に写真で見たジョン・コルトレーンの姿がなぜか重なる。そしてまた、梅津が吹くサックス、クラリネットのサウンドの多彩さ。セカンド・セット半ば、坂田が<死んだ男の残したものは>を吟じ始めた時は空気感が変わった。よく知られた谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の歌である。目に見えぬ何かに吸い寄せられるように詩の世界に引きずりこまれる。詩人の言葉は深くて重い。反戦歌として作られたその詩から何をイメージしたのかはその人次第だろう。この日の演奏で再確認したことは、フリージャズは過去の音楽スタイルでは決してないということ。そこで聴いたのは、これまでの経験から導き出された幾重にもアップデートされた音表現の現在地である。それでこそ追悼演奏なのだ。

帰り道、私は1994年ベルリン、FMP主催のフェスティヴァル、トータル・ミュージック・ミーティングにペーター・ブロッツマン「ダイ・ライク・ア・ドッグDie Like a Dog」で演奏していた近藤等則の姿を思い出していた。近藤がアムステルダムに居を移して間もない時期で、それまで何度か見た彼の演奏の中で最も強い印象が残ったステージなのである。日本でのIMAバンドを中心とした活動とは異なり、うねるようなサウンドの中でインプロヴァイザーとして原点に立ち返り、会場を突き抜けるかのように響くトランペットの音が印象的だった。3人の演奏が記憶の扉を開いたのか、当時の光景が蘇ってきたのだった。

 

 

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横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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