Jazz and Far Beyond
コロナ禍が続く中、以前のように自由にコンサートを開催することが難しい状況ではあるが、これからも橋本君が喜び驚くような“とんでもない”演奏が、いろんな場所で繰り広げられていくことは間違いない。それを確信させる演奏会だった。
常に独自の表現を求め、常識を破壊し続けた橋本君に相応しく、「悼む・偲ぶ」のではなく彼が聴きたかったであろうミュージシャンを一堂に集めた演奏会を開催します。
そこには阿部や浦邊はもちろん、誰との比較をも許さない、冷徹なほど屹立したアルトサックスがモノトーンの色彩を放っていた。それは筆者の意固地なジャズへの被害妄想を突き崩し、贖罪として筆者は自分語りに始まるディスク・レビューを書くに至った。
改めて橋本さんは真っ直ぐに芯のあるプレイをしていたんだなと実感する演奏家でした。
みんなが彼から受けた輝きを、それぞれが身近な人に繋いでいけば世界は少し変わるように思います。そして私も、タカちゃんが繋いでくれたご縁を、大切にしていけたらいいなと思っています。タカは、みんなのタカだからー彼が愛した人たち、まだ会ったことがない人も含めて、私も愛して繋いでいきたいと思います。
今思うのは、彼と一緒に目指していたことを続けていきたい。それはドットエスとしての音楽活動やギャラリーを超えた何かだ。
アルトを手に、「どこにもない音」を追い求めていた橋本孝之さん。ダンサーとの共演を通じて触れた、その孤高にして至高のパフォーマンス。
橋本さんが亡くなったことを知った時は、混乱し、泣き、色々なことを悔やんだ。ご家族や関係者の方々のお気持ちを思い、悲嘆にくれた。だがしかし、いつまでも無念だ、残念だ、悔やまれるとばかり繰り返していても仕方がない。涙をぬぐい、頭を上げて、前に進んでいく、それが生き延びている者の責務だろう。結局のところ、言いたいことはそれだけだった。
僕にとっては一緒に音を作ってきた、家族同然の様な人だ。
背骨に向かって、音を出す人でした。
アートの世界は人間の形に扮した巨人を失いましたが、彼の魂は確実に生き続けるでしょう。
橋本孝之のアルトは独自性の強い、唯一無二のものだったと思います。私は阿部薫のアルトより、橋本孝之のアルトが好きです。阿部薫を超越していたところもあると感じていました。
情動と覚醒の切り替えが速い。感性と理性の均衡がずば抜けていいのだろう。そしていつも全力だから、彼には.esもソロもkitoもUHも同じくらい大事だということがわかる。聴けばわかる。
橋本孝之さんの音からは独自でありたいという表現者の矜持が強く感じられた。
最近作『CHAT ME』(NOMAT)、楽音を排したノイズから立ち上がるサウンドに、コロナ禍が続く中で擦り切れそうになっている今この時代の感受性が共振しているように思えた。
なお、橋本孝之の音楽のルーツには、阿部薫に留まらず、小杉武久をも孕んでいる。