Jazz and Far Beyond
日本を代表するヴァイオリニストの黒沼ユリ子氏が、今日の若い人びとの必読書の触れ込みで「かけ替えのない文字と行間に詰められた貴重な思いを、後世の日本人に残してくださったことには、感謝以外の言葉を私には何も見つけられません」と推薦の言葉を送っている。
マリア・シュナイダー・オーケストラの5年ぶりのニュー・アルバムとなった『Data Lords』は、”The Digital World”と”Our Natural World”で、陰陽を描く2枚組の大作となった。来年度のグラミー賞ラージ・ジャズ・アンサンブル部門の最有力候補である本作を、マリア・シュナイダー自らが熱く語る。レコーディング直前の、NY大でのリハーサルの写真を公開。
海外ミュージシャンの招聘活動も積極的に行い、その数はのべ23名にも達する。特に82年には、オランダを拠点にするインターナショナルグループ「ICPオーケストラ」を招く。
E.E.U.は、こうして、今、グループとしての活動を終える時期に来た、と僕は思う。
僕のような旧世代人にはせっかく生楽器の良い音を持っている人のエレクトリック化は、勝手な一ファンに立ち還ってみればマイルスをはじめどうも受け入れがたいこともあるものなのだ。
若く、ナイーヴな近藤等則がここにいる。71歳の老水夫のなかに、即興演奏の大海に漕ぎだしたばかりの若者がいた。さようなら。いやボンヴォヤージュ。
その後、エレクトリック・トランペットを演奏しTVで特番が放送されたりと、常に変化をし続ける姿は、歳を重ねる毎に益々輝いて見えた。
高木元輝 吉沢元治 近藤等則
じつはこの9月にデュオ・ツアーとレコーディングを計画していたのだが、パンデミックのためすべての可能性がつぶされてしまった。最後の会話は、再演を2021年に延期しようということだったのだが..。
As a member of the Globe Unity Orchestra, we have been works together for many years and I remember him as a great player.
彼が終生名乗っていた IMAは International Music Activity のイニシャルで(僕は密かにIMAは故郷の今治市の今と、現在の今にも通じると思っているのだが)、まさに音楽事業も彼の音楽活動の一環であることを表しているとおもう。
コンちゃん!まさかの信じられないニュースやなあ。お釈迦さまのところへ、か。チベタンの青空と太陽のニューラルネットワークからいつでもどこでも交信できる。
THANK YOU!! OHAYOH-MAN!!
ありがとね、サイコーだったヨ、コンちゃん!!
ドラマー山木秀夫さんのFacbookからシェアさせていただきました。
日本では珍しいボヘミアン的な感覚を持ったミュージシャンだった。日本が誇る貴重なアーチストがまた一人亡くなってしまった。
ドラマー山木秀夫さんのFacebookからシェアさせていただきました。
一時代の天才を失った痛みを痛感します。
ご霊前に弔意を捧げます。
あまりに急報だったからではなく、死ぬはずがない男だと 思わせる生き様も特異だったので、音楽上はおろか、多方面での付き合いも多々あった。中でも故人と筆 者しか誰も知らない出来事が脳裏に浮かんだので供養に変える。
彼は強烈な個性を持っており、彼の人間性と作品は我々の記憶から消えることはないでしょう。
毒・華・土性骨—これらを兼ね備えるステージ人は稀有である。
アーティストにとって最も大切なのは唯一無二の個性だが、近藤の音には一聴すればたちどころに誰だかわかる強烈なビートと香気がある。巧い/下手で語る次元が霞(かす)む毒性。その衝撃は、視覚よりもはるかに速い。
近藤等則のエネルギー体は、常日頃のライブ・パフォーマンスに於いても、惜しげなく放たれ、人々を魅了し続けてきた。最晩年、コロナ下でのライブの「レスポンスの無さ」を嘆く近藤等則がいた。
彫りが深く、長い眉毛や睫毛、見開いた大きな眼を持つ近藤等則の骨相は、まるで快慶作の仏像彫刻のようだった。
テン年代に何回か体験した近藤の演奏は、30年前のフリージャズ体験をアップデートする新たな衝動を与えてくれた。近藤の突然の死にあたって、自分の体験したライヴの感想をブログ記事から抜粋することで、筆者なりの追悼文とさせていただきたい。
非常にお茶目な面もある、いくら毒舌を吐いても憎めない「カワイイ」と言ってもいいくらいの人で、僕はとてもラクに楽しくしゃべれた。
とにかく、氏の関心は過去にはなく、今現在と、さらには、より未来に強くあるというのが強烈な印象として私の中に残った。
世の中なんかクソ食らえ!魂の自由が音楽だ!とシャウトしてるのに、あまりに鈍く酷いコロナ禍の人間達。俺に文句があるんならいくらでも言ってくれ!!!
近藤等則は日本人にしかできないビート音楽を目指していたのだと思う。筆者にとってはマイルスの影響が強く聞こえ、かつマイルスがやらなかったディスコビートに賭けた近藤を分析してみた。彼の驚くほど豊富な斬新なアイデアや、洒落たコミカルな部分や、歌のうまさや、コロナ渦に入ってさらに自宅から5枚のアルバムを出すその精力。偉大なアーティストを亡くした。
アストラッド・ジルベルトは彼女の女性像、ファッション共に、1960年代そのものだった。
心療内科医でジャズ・シンガーの海原純子が立ち上げたシリーズで、医療だけでは手の届きにくいこころの隙間に音楽という手段を通じて手を差しのべようとする試み
私自身は当然のマスク装着にて、いつもの様に空いた路線と時間帯を選んでの移動。 一方の店側も、ソーシャル・ディスタンスを考慮した凡そキャパ半分の客数に限定、入店時の手指消毒徹底&マスク着装確認、加えてセット間の換気徹底と、万全の構え。そんなすっかりと定着した “新しい日常” の中の Live after Live は続く。
2016年7月のヨーロッパ5都市ツアーから、初日ブダペストのベラ・バルトーク国立コンサート・ホールでのライヴをリリース。2017年、活動休止前カーネギーホールの半年前の記録となる。
またピーター・エヴァンスが異色作を発表した。変わった編成のカルテットであり、特にトランペットとヴァイオリンとの共存のヴァリエーションは刮目にあたいする。
自然体のフリースタイルミュージシャン、中尾勘二が生み出す郷愁のアンサンブルが心の自由度を果てしなく広げてくれる。ふと気が付くといつもそこにある風景のような和風フォルクローレ(民俗音楽)である。
NYを活動の基盤としている日本人の音楽家が多いなかで、彼女の音楽だけからはNY的類型から離れた空気が流れてくるのはなぜだろう。
数多ある欧州新感覚派・近未来派ピアノトリオの中でも他とは確実にぶっ飛び、かけ離れたところを遠慮など全くなく疾走していくこの若き3人。
ワレリアンのプレイは雪舟の日本画のみごとな筆遣いを彷彿とさせる。そこには俳句のような語り口があり、謎めいた魅力がある(ウィリアム・パーカー)
アルメニア出身の鬼才ピアニスト、ティグラン・ハマシアンが自身の夢のような内面世界を探求する旅へ向かう。
この作品、NYの進取性・先鋭性にラテン・ジャズの熱気をプラスさせた、と言うよりも塗したと言う表現の方が適切な趣きの、コンテンポラリー・ジャズ作品とも言えそうだ。
相変わらず3人の結束は堅固なものである。玲瓏な調べにベース、ドラムが次々とこれでもかとビシバシと決めてくる。これを演られるとおいちゃんはイチコロとなる。
Covid-19という災厄のおかげで再認識された<自然>との共生、つまり「ウィズ・ネイチャー」こそ、我々人類が本気で取り組むべき課題に違いない。No Touguesの疑似民俗音楽は、自然と人類の芸術的コラボレーションの新たな形を予感させてくれる。
「私は生還者の義務として、思い出してもゾッとするあの過ぎしころの悪夢のような出来事と、現地の実相を、たとえ筆は拙くとも、ただ有りのままに世に広く発表したいと……」
佐々木久枝の墨と花、岡川怜央のエレクトロニクス、矢部優子のピアノが、喫茶茶会記という独特の場において、いちど限りのみごとな世界を創出した。
1996年に結成されたKHAMSINが、2017年に新メンバーを加え再始動し、関西を中心にライヴを展開している。また、古谷充が亡くなった後の「古谷充とザ・フレッシュメン」公演にも触れる。
インプロと言ってもジャズでもロックでもクラシックでもエスニックでもない。特定のスタイルに囚われない独自のスタイルは、“分かりにくい音楽こそ面白い”と宣言するフェスティヴァル『JAZZ ARTせんがわ』の精神を個人的なレベルで実践している証拠である。
加納美佐子が沈黙のときを経てステージに戻ってきた。
ベースがかなり図々しく出てくるが、バランスとしてボーカルを食い込む音にならない。愉快なバランスが成り立っている。
肉声をここまで強烈な印象で聴かせるボリュームは、録音からミックスの段階で相当な経験技があると言える
音像からはスタジオ録音だが、バランスからはワンポイントを想像する。
クラリネットの耳を刺激する音の質量をバランスで整えて聴かせ、録音として優れている。
アルバム『アニヴァーサリー』のバンドメンバーで日本をはじめヨーロッパや北米、南 米など世界中をツアーで回ることが夢です。
ジャズでもロックでもなくただひたすら「音楽」というセッション。我々は途轍もなく大きな奇跡を目撃したのではなかろうか。