Jazz and Far Beyond
東京から舞踏家の徳田ガンさんがミュンヘンにやってきて、その「死者の谺(こだま)」のドイツツアーに合流する。
ミュンヘン空港に降り立ったのは10月3日、その日は東西ドイツが再統一する戦後史の転換点となる日だった。
プエルトリコ出身の詩人、ミゲール・アルガリンを中心に1975年頃から詩のムーヴメントが起こった.
ニューヨーク発の「新しい音楽」が一番輝いていたころの、それは貴重なドキュメント.
梅津さんとのデュオは、民俗的、牧歌的な音楽を基調としながら、アクースティックな音の可能性を限りなく広げていった。
その後、初めてのソロCDをリリースするまで、15年の歳月が必要になる。ソロは本当に難しい。
88年に創刊されたミニコミ「ORT LIVE」は、ワープロとコンビニのコピーを駆使した東京の音楽シーンを伝える、どこまでも温もりのあるメディアだった。
この「日本聖殉教者教会」は、日本人のカトリック画家/フレスコ画家の長谷川路可画伯によって祭壇画・天井画・小祭壇画が描かれ、今に至っている。
マドリードの蚤の市では古い、手作りのカウベルをいくつか買うことができた。その音色はボクの音楽の中で欠かせないものとなり、今でも愛用している。
カーレとのデュオは、多くのゲストと共に音の広がりを作りながら「新しい音楽」を指向していく、そんな活動だった。
非西洋的なエレメントが多ければ多いほど、また個の表現というものを突き詰めれば突き詰めるほど、ヨーロッパでは「アーティスト」として認めてくれる。
ヨーロッパではクラシック音楽に対するオルタナティブな音楽としてジャズが市民権を持っている
フリーであるという事は本当にいろいろな事を意味するのですね。
即興演奏というものは人柄がよく表に出るものだけれど、ポール・ハスキンほど、その人柄が音楽に表れているミュージシャンもいないだろう。
トムとの演奏が難しいのは、その独特のグルーヴの展開に予測がつかないからだろう。
即興というのはけして、「何でもあり」の自由ではなく、その場面その場面で、「それしかない」演奏を瞬時に選択していく…、
一緒に演奏すると、二人の個性が際立って見えてくるというのは新しい発見で、新しい音楽が出来そうな気がしていた。
「KNITTHING FACTORY」は、NYダウンタウンの「新しい音楽」の発信地として知られるようになった。
フリージャズの身体性と、知的な即興演奏が、高い次元で融和して、新しい音楽の扉を開いていく…、そんな演奏だった。
New Music という音楽潮流は、ニューヨークに「ダウンタウン・ミュージック」とでも言うような、新しい音楽の動きを加速させていった。
「New Music」という音楽潮流は80年代から90年代はじめまで続き、コンピュータやサンプラーとともに新しい音楽を構想していくことになる
「音楽は自分の魂と体から出てくるもので、聴く人の体と心に働きかけるものだ。」
ボクにとって「いい演奏」というのは、思っていたことがうまくできた時ではなく、自分が思いもよらないような演奏をした時だ
新しい場所は、新しい自分を作ってくれる…、そんなことを感じていた。
佐渡は、自分の音楽を育ててくれた場所だという感覚は強く持っていて、佐渡で演奏することは、自分と向き合う事でもあった。
形を作ることと、型破りのことだったら、後者を選ぶ、そんな心情をボクは持っていた。
名もなき市井の生活者が、伝統的な音楽や文化を支え継承しているというのが、沖縄や八重山の実相だろう。そこにこそ沖縄の存在価値があるはずだ。
「即興」というものはある種の身体感覚で、それまでの自分の殻を破ることで自分の体の内側から新しい音が現れてくる…
即興であるにも拘らず、演奏に方向性を定めてその場で音楽を形作っていく…、この即興の方法論はその後ボクの音楽の作り方になっていった。
学生の頃、沖縄・八重山の離島で宇宙というものを始めて見たのと同じように、ボクは、ニューヨークのアスター・プレイスで、本物のジャズと出会ったのだった。
この日の二人の演奏は、既存のスタイルに依りかからない新しい音楽のあり方として、ニューヨークの聴衆には受けとめられていたのだろう。
ボクのタイコの音が、ジャズではなく、東洋的なグルーヴを作り出していることに即座に反応する小杉さんの音楽の、懐の深さにボクは感じいっていた。