Jazz and Far Beyond
サンボーンは演奏は熱いが、物静かでダンディな男だった。
ドクターとジャズ・トランペッターの2足の草鞋を履くエディ・ヘンダーソンは、The Cookersの創立メンバーのひとりで今も中心的存在。
まさに20世紀の偉大な人物の一人になった 「ボブ・マーリー」なのだ。
キースのNHKホール、武道館はどちらもジャズ・ピアニストのソロとしては初の登場だった。
プレイヤーとしてだけではなく作曲家としてもジャズ・スタンダードとなる多くの曲を書いた。
ケイコさんにはエルヴィンの素晴らしいキャリアに尽力したことに対して本当にお疲れ様でしたと言いたい。
SJ誌の編集部員と自宅を訪れるとなんとジョン・レノンと向かい合わせの部屋だった!
最も大好きなジャズ・シンガーのトニー・ベネットさんの自宅で
の取材の時は、さすがにもう興奮と感激の時間だった !
1974年7月、スイング・ジャーナル誌の取材でニュージャージーにあるキース・シャレットの自宅を訪問した。
好評連載中の菅原光博「ジャズを撮る!」は20回を期してNYのジャズクラブ巡り!
真夏の熱い真昼間、NYの移動ステージ Jazz Mobileは無料でジャズが楽しめる素敵な風物詩。
ビレッジ・バンガードと並んで人気のあったクラブ「ビレッジ・ゲート」
ビレッジ・バンガードは、その時のジャズをオンタイムで目の前で聴けた貴重な場所でもあった。
1976年、アメリカ建国200年。ニューポート・ジャズ・フェス in NY、52丁目のビルの谷間に若手ジャズメンの清新なサウンドが高らかに鳴り響いた。
40年ぶりに陽の目を見る1978年のイーストヴィレッジでのAIRと1980年のティン・パレスでのデクスター・ゴードン、ウォルター・ビショップ Jr、セシル・テイラーら。ロフトジャズ終末期の記録。
1974年、ソーホーのアーチスト・ハウスでオーネット・コールマンを心を引き締めて冷静にシャッターを切った。
ロフト・ジャズ・シーンの拠点の一つ、スタジオ・リブビーでアーチー・シェップと共演する川崎燎。
キース・ジャレットのトレードマークのソロ・コンサート、日本では1974年、カルテットの来日時の最終公演から始まった。
あの豪快でダイナミックな圧倒的な素晴らしい演奏に最初はあっけにとられてしばし写真を撮るのも忘れて聴いていた自分がいた
マイルスのあの独特で繊細な音色の”マイルストーン”、いつも時代の先に向かう”マイルス・アヘッド”、そして”マイルス・スマイル”の三部作。
1981年の6月、New Yorkの街はマイルス・デイヴィスの空白の5年間を経た ” Kool Jazz Festival ” への出演の話題で沸いていた !
1973年6月に続く1975年1月の来日公演と1975年6月のNYニューポート・ジャズ・フェスティバルでの計3回のライブを観た!
この頃、明るい太陽とカモメがチックのシンボル的存在だったのだ。
2度の脳卒中の後遺症としての左半身の麻痺。ピアニストとしての再起は危ぶまれているが、作曲家など音楽家としての再起の可能性はないのだろうか。