ユニバーサルな耳/悠雅彦さんを偲んで ラジオ番組プロデューサー 田中美登里
ユニバーサルな耳、と言ったらいいのだろうか。新しい表現を模索する人の応援団だったのだろうなあ。
続きを読むJazz and Far Beyond
ユニバーサルな耳、と言ったらいいのだろうか。新しい表現を模索する人の応援団だったのだろうなあ。
続きを読む正直言って、どの頁にも引用したい文がある。それだけこの書には悠さんの、批評と、それ以上に思想が凝縮されている。
続きを読む音楽はテクニックでもないし、複雑なことでもない。人生のようなものなんだ。人生を語るものだ。どのように感じたか。何が出来るか。演奏する時に悲しい気持ちならば、そう伝わる。
続きを読むトリスタンの演奏も、要所で明確な主題なりフラグメンツを提示するなど、音楽のフォルムを茫洋とさせずに芯を作る技術に長けたものでした。
続きを読むホンジンガーはあくまでチェロ一本(時に弓は二本)にこだわった。その集中力は偏執狂的というべきものだった。
続きを読むここには決定的に欠けているものがある。それはまさに「ウタ」であった。
続きを読む1973年6月に続く1975年1月の来日公演と1975年6月のNYニューポート・ジャズ・フェスティバルでの計3回のライブを観た!
続きを読むNYのジャズ・シーンをオンタイムで日本に招聘したあいミュージックの鯉沼利成氏の存在とジャズに賭けるその熱い情熱を知った一瞬だった !
続きを読む若く、ナイーヴな近藤等則がここにいる。71歳の老水夫のなかに、即興演奏の大海に漕ぎだしたばかりの若者がいた。さようなら。いやボンヴォヤージュ。
続きを読むNYで活躍するカナダ人、クリス・デイビスの『Diatom Ribbons』がこの9月に発表された。アバンギャルドとかフリーとかにカテゴリー分けされているが、彼女の作曲能力は恐ろしいほど高度だ。タイトル曲<Diatom Ribbons>、その絶妙な構成と、これだけ複雑に仕込まれた曲なのに全く奇をてらったように聴こえない部分と、使用されているセシル・テイラーの語りのサンプルを解説してみた。
続きを読む作曲者の死後も存在し続ける楽曲と、演奏者の消滅とともに消え去る即興。しかし、その両者の目指すところは永遠性として合致していた。両者の合間にデレク・ベイリーはいた。
続きを読む温故知新などと言う前に、今、この二枚を聴け。いや、そんじょそこらの「なんちゃってフリー」ではない。二十世紀後半の波濤をかいくぐり、さらに自らの船を繰り出す2人の船長の声を。
続きを読むレパートリーへの理解と解釈が驚異的に深化し、まさに彼らにとってのスタンダード・ナンバーとなっている。あまりに堂々とした演奏は本家ZEPにも負けない王道の風格がある。
続きを読むその児山さんがかつて大腸癌の大手術を経験した私より先に死出の旅に発つとは。人の運命とはまったく分からないものだ。
続きを読むこの作品の背景はピアノのサウンド処理だ。繊細な響きから鍵盤からのエネルギーを解放する音は賞賛。
続きを読む一噌幸弘がふたつのセシル・テイラー追悼作を出した。それらは、同じ時代と場所を共有した者として、一噌自身が現在のフリージャズを鮮烈に提示した作品となっている。
続きを読む藤山裕子、18年ぶりの日本ツアー。長いニューヨークでの活動で培われたであろう、音風景や言葉と分かち難い独特のピアノサウンド。そしてレジー・ニコルソンのシンプルで鋭いドラミング、<あるがまま>の境地に入った齋藤徹のコントラバス。
続きを読むこの過程はテイラーだけのものではない。日本に孤高のギタリストが居た。ボサノヴァでプロデビューし、トリスターノの研究からクール派の演奏を成就し、タンゴを異形な演奏で示し、漸次投射/集団投射の方法論で日本独自のフリージャズを顕現させ、遂にはそのギターソロが轟々たるノイズの壁を屹立させるに至る。高柳昌行、その人である。
続きを読むベルリンで接したテイラーはリラックスして自然体だった。周囲に彼の音楽の理解者が多くいるベルリンの空気に馴染んでいたのかもしれない。偉大なるモダニストの死に、心から哀悼の誠を捧げたい。
続きを読むそんなセシルが帰国する直前、出来たらもう一度日本へ来たいし、住んでもみたいと語ったのは、決して外交辞令的な発言ではなく、半ば本心だったのではないかと私は思っている。
続きを読むセシル・テイラー89歳にて逝く。この文字をインターネットの画面で読んで「ついに」の感にまず襲われた。彼の存在はぼくには特別だった。
続きを読むセロニアスに似て、全く誰のようでもない「間」。デュークに似て、壮大なオーケストレイション。そして、すぐれてパーカッシヴでありながらも、誰よりもよく「うたう」のがセシル・テイラーというわけです。
続きを読む他界してしまったセシル・テイラー。彼がライフ・ワークとしたフリーインプロビゼーションではなく、彼のデビューアルバムからオリジナルのブルース曲を取り上げた。分析して初めてセシルのヴォイシングがコード進行に忠実だったことを発見、また、セシルが曲のフォームをいかに尊重していたかなどに焦点をあててみた。
続きを読むここ数年セシルに会いたいと思ってきたけど、果たせなかった。そして、彼は逝ってしまった…。
続きを読むセシルも富樫さんももうこの世にはいないけれど、地球の自然に捧げた祈りは、続いていかなければ。
続きを読むピアノに向かわれるやいなや、お香を焚かれた。
続きを読む1973年5月22日セシル・テイラー・ユニット@新宿厚生年金会館大ホール。アキサキラ(サワヒリ語で沸騰するの意)を捉えたトリオレコード営業部のアマチュア・カメラマン石井隆の遺作展。
続きを読む70年代のセシルの音楽には、都節(みやこぶし)音階という日本の音階がふんだんにでてきます。(中略)あれだけ強烈に自在に弾き倒しておいて、最後が能楽の「音取り」のようになって終わる。おおっ!と思いましたね。
続きを読む「鯉沼さん、プロモーターとしてやり残したことはないでしょう?」「プロモーター? 俺は興行師だよ!」。大興行師・鯉沼利成と音楽人としてのキャリアの一部を共有できたことは光栄かつ名誉なことである。
続きを読むニューヨーク・アートクァルテットなどでの演奏でフリージャズにおけるトロンボーンの位置付けをしたラズウェル・ラッド。恐ろしいほどの数のアルバムを残して他界した、そのほとんどのプロジェクトは多岐にわたるジャンルやスタイルとのコラボ。彼のトロンボーンのスタイルは2種類に別れていたようだ。その2種類が上手に合わさった珍しい録音から1曲解説してみた。
続きを読むディキシーランド・ジャズからスタートしたラズウェル・ラッドの長い音楽キャリアは時代を反映したフリー系ジャズを経て、ワールド・ミュージックで幕を閉じた。
続きを読む2作目のアルバム、ピアノ・トリオ作品『Billows of Blue』のリリースに至るまでに出会うべくして出会った数々の名盤と、ニューヨークの音楽家達。「ジャズ」とは何かという問いの追求について、自身が語る。
続きを読む聖地・高円寺グッドマンから現れたリード&ドラム・デュオによる叙情曲集は、パンドラの箱からフリージャズの精霊たちを解放し、ギミック無しの生のジャズのパワーを世に知らしめるパラレル・モーションである。
続きを読む盟友梅津和時と袂を分かつことになった原田が、『失楽園』を著して有名なイギリスの詩人ミルトンが1644年、当時の言論弾圧に抗して刊行したパンフレットの書名『アレオパジティカ』に倣って「自由な表現」を求めたように、我々リスナーは「自由な妄想」を追求すべきことを提言したい。
続きを読む私たちはセシル・テイラーの音楽をどう聴けばよいのか。トニー・オクスレーはかつてこう言った。「セシルの音楽をモダーン・ミュージックのように決してシリアスに捉える必要はない。とても自由でエナジーに満ちていて、僕は演奏していてもとても楽しい」。そして付け加えた。「ただココロを開いて聴けばいいのだ」と。
続きを読むセシル・テイラーはエリントン同様に音楽家として屹立した存在だ。今回再びそのステージを観て、彼が追求してきたのは、あくまでもパーソナルな音楽であり、世界だということを強く感じたのである。
続きを読むセシル・テイラーの場合、ダンスや所作がセシルにまつわるあらゆることと無関係でなくなってくる。
続きを読むフリージャズ・ファンのアメリカ人コレクターを経由して入手したセシル・テイラーの海賊版。1983年のスイス、ヴィリザウでのライヴ録音だ。
続きを読む「セ~シル・テイラー・ユ~ニット!!」。レコードに針を下ろすといきなりMCの絶叫する声が耳に飛び込んでくる。悠 雅彦氏の壮年の声である。そして、その声にかぶるようにしてピアノが、アルトサックスが、そして、ドラムスが雪崩を打って出てくる。
続きを読む終始すべてを見透かしているかのように演奏を引っ張っていたのはセシル・テイラーだったことは否めない。それでも、異なる個性がぶつかり合い、二台のピアノがシンクロし、共鳴しする醍醐味は、この二人の共演ならではの出来事だったといえる。
続きを読む「音楽は演奏するもので、語るものではない」というのがセシルの口癖でした。
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