I Remember Oki sax Mike Ellis
OKIさん、さよなら、長い付き合いだった..。寂しくなるぜ。
続きを読むJazz and Far Beyond
OKIさん、さよなら、長い付き合いだった..。寂しくなるぜ。
続きを読む限りなく自由でオープンで、人を喜ばせるのが大好きで、いつも合言葉はハッピネスとクールクール。
続きを読む私はスペイン人の母と日本人の父の間にフランスで生まれ育ちましたが、日本の精神世界や哲学には自分のルーツを感じています。
続きを読む「ステージでヌシコク(〝死ぬ″の隠語)の夢ですよ。木口小平は死んでもラッパを離しませんでしたってネ」。
続きを読む背もたれのない椅子に腰掛け続けたのは、それも美しく腰掛け続けたのはあなただったと気がつけた。
続きを読む私は、生涯の友であり、初めて聴いたときから憧憬の念を抱き続けてきた音楽家を失うことになった。(マンフレート・アイヒャー)
続きを読む2017年秋のニューヨークに滞在中、ジャズクラブ「ジャズ・スタンダード」にゲイリー・ピーコック・トリオが出演していて、元気なゲイリーに会うことができた。
続きを読む京都で暮らしていたということも、そのプレイスタイルに大きな影響を与えたであろうと考えると、日本人として嬉しくもあり、一方、同じベーシストとして、しかも京都で学生時代を過ごしていた身としては、ちょっと悔しい思いもあります。
続きを読む参加している演奏はどれも魔法をかけたように特別なものとなる様から、ゲイリー・ピーコックさんは僕にとっては魔法使いとなりました。
続きを読む3人で荒れ狂う海に飛び込んで行く。3人とも溺れてしまう事もあるけど、見た事もない楽園に3人同時に辿り着く事もあるのです。音楽でリスクを侵す事を恐れてはいけません。
続きを読むゲイリーの演奏を聴いているとベースを弾いているということを忘れてしまう。ベースを弾いている、ということ以上に彼の内にあるものが強く伝わってくる。このような気持ちになる演奏家は決して多くない。
続きを読む日本が波長に合うのか本当に日本が好きだったようです。
続きを読む小川先生の話ではゲイリーさんはアメリカでかなり体調を壊し、久司道夫先生に相談して、マクロビオティックを勧められ、その哲学や食事法を学ぶために家族で来日して京都に住み、時に東京にきて天味で食事をし、久司先生から紹介された小川先生と会っていたものと思われる。
続きを読むつまり、日本の伝統的な文化を学びたいからです。西洋と東洋の...精神は、相反するものです。私は、日本の精神の中からたくさん学ぶことがあると思っています。
続きを読むGaryは Be-Bop の影響があまり聴こえないベーシストですが、4/4 でスイングする時のグルーブは強力です。また、こんなにスペースを感じられるベーシストは稀だと思います。
続きを読むその頃ゲイリーさんは太極拳やマクロビオティックをやっていて 小さな玄米のおにぎり持ってきて食べていたのを覚えてます。
続きを読む沖至の古くからの友人でもあり、現在のパリの即興シーンの重要なオーガナイザーの役割を果たすアトリエ・タンポン、マーク・フェヴルの主催により行われた。
続きを読む魅力の焦点は何と言っても、フランソワ(キャリリール)のフリージャズ風フレージングと纐纈雅代のリアル・フリージャズのフレージングを対決させたアイディアにある。
続きを読むいつまでも未知なるものへの探究心を忘れないリー・コニッツのスタンスにいつでも励まされています。
続きを読む彼のあまりに多い作品数、幅広い世界観、どれもに共通した素晴らしい音色、に敬服しました。やはり巨人でしたね。
続きを読む同時代を生きその素晴らしい音に直接触れる機会を何度も持てたことで、影響を受けたサックス奏者の中でもコニッツさんは特別な存在でした。
続きを読む50年代の録音がとくに好きですが、1961年コードレス名盤『Motion』のインプロヴィゼーションに捧げる姿はいつ聴いても痺れます。
続きを読む少し暗い街角の石畳に空から光と天使の歌が降りそそぐ。そこにリー・コニッツが居る。いま彼はどこに居るのだろう?
続きを読むLeeは、本当に美しい心の持ち主だった。目を瞑れば、いつだって空から彼の音が聴こえてくる。
続きを読む正確なピッチを求め、クラシカルな要素を孕みつつサブトーンを織り混ぜたそのトーンは、正にサックスの美しさの結晶と言えるだろう。
続きを読む数年前のニューポートジャズフェスで、スポーツウェアに身を包み素晴らしい演奏を聴かせてくれたリー・コニッツさんを描きました。
続きを読むリーは一身に尊敬の念を集めていたが一般的な人気はというとそれほどでもなかった。それも宜なるかな。しかし、それは音楽性とは関係のない話である。
続きを読む『リー・コニッツ&ダン・テファー/ディケイド』(Verve 2018)
続きを読む2019年12月、初来日。埼玉・越生「山猫軒」での演奏(纐纈雅代as、不破大輔b、井谷享志ds)が2020年、リトアニア NoBusiness Recordsから『Japan Suite』としてリリース予定。
続きを読むジャズへの献身的な愛を持ち、心は若く冒険心に溢れていました。
続きを読むRyoは、自分のサウンドとフレージングを持った優れたギタリストだったが、作曲の才能も兼ね備えており、いつも新作に向けて素晴らしいマテリアルを用意していた。
続きを読む自宅のパソコンも店のパソコンも携帯も“りょう”と打って変換するとかなり上の方で“燎”と出る。
続きを読むジョアン・ブラッキーンと川崎燎のデュオ作に『Trinkets And Things』(Timeless 1978) がある。
続きを読む彼の即興に関わる技術は天才といえるほどのマスター・レヴェルに達しており、数多くの音楽ソフトウエアや楽器の設計においてもまた然り。
続きを読む土台にあるのはジャズのようだが、様々なジャンルのギター奏法をマスターしていることがわかる。
続きを読む彼は、アコースティック・ピアノひとすじで、“男の生き様”を貫いた。そして、ジャズ・ピアノの可能性の頁を大きく前進させてくれたと私は思う。
続きを読むジョージさんの音楽がよくスイングしていたのは衆目の一致するところですが、才能と経験と強い意志のもっと奥の方で美しい音楽に対する憧れがあったような気がします。
続きを読むジョージ大塚の内外にわたる多彩な活動を思い出の写真とともにたどる
続きを読む日本とドイツでは背景が異なるが、”非官僚的”でスピード重視の支援という点では、参考にできる点もあるのではないだろうか。
続きを読むモニカ・グリュッタース独文化大臣は、3月11日「コロナウィルスの蔓延によって打撃を受けている文化事業者への大規模支援」を発表した。
続きを読むライルが死んでしまったという想いで、あらためて彼がかかわった曲を聴いている今、どうしても 喪失感で涙がこみあげて来そうになってしまう。
続きを読む流麗で叙情的なスタイルでありながらリズミックなアイデアやスキルが半端じゃない、という点はビル・エバンスに匹敵する凄さだけれど、ライルの方がテクノロジーを駆使し、ジャンルを超え、リスナーや後進ミュージシャンの感性を広げてくれた。あまりにも早くあの世に行ってしまったけれど、あちらの世界でクリーム色に輝き続けています。
続きを読むライルと創造的な冒険を共にできた幸運にいくら感謝してもし過ぎることはありません。
続きを読むパットとライルを追い続けて30数年、僕はずっとこの「心地良さ」に支配され続けてきた。ライルはいつも僕のそばにいた。その音楽に触れることは、僕自身の人生を再体験することでもある。
続きを読むEinsteinが普通の学者が考える遥か高次元において真理を探り当てたように、Lyleは音楽の真理を自然の法則として理解していたのではないか、彼の作る現代音楽の手法による不協和音に潜む圧倒的な「美」を感じる度に思います。
続きを読むライル・メイズほどそのプレイスタイルを間接的なかたちで様々なミュージシャンに影響を与え続けた人もいないようにおもう。
続きを読む手元は余計な上下の動きが無く滑るようで且つ鋭いです。ピアノの音色は水のような透明さを感じました。
続きを読む言語化し時間の流れに杭を打って固定しようとしたそばから、スルスルと抜け落ちて行くような流麗さこそが、優れた音楽家の特徴なのかもしれない。
続きを読む13歳でライルの音楽に出会って以来、その輝ける魂は私の人生におけるインスピレーションの源です。
続きを読む偉大なチーム・プレイヤーに徹し、バンドリーダーとしての野心を持たなかったクリステンセンにもECMに1作だけ自身の名前を冠したアルバムがある。
続きを読むヨンはその演奏が必要としているものを瞬時に直感し、瞬時に対応できる極めて稀な魔法のような能力を持っていた。
続きを読むそこから僕の音楽の方向性は変わり、「ドラム」という概念を捨て去ることができた。
続きを読むヨン・クリステンセンが空の彼方へ旅立った。一つ年上のヤン・エリック・コングスハウクが旅立った 3ヶ月後に、というのはいくら神の思し召しとしてもいささか出来すぎていやしないか?と思う。
続きを読む貴方がいなかったら今のジャズの形はないと思います。
続きを読む北欧の巨匠が、世界中のドラマーに身をもって示した新たなアプローチと哲学。
続きを読むスケジュールを組んで練習に取り組んだことは一度もないよ。教則本やメソッド類に取り組んだこともない。
続きを読む彼(アイヒャー)が僕のところへ来て選んで行った写真は、日本では使われないようなものばかりだった。
続きを読むそれが両スピーカーから発散したとたん脈々と血が通った、よりリアリティに満ちた演奏の場を再現してくれる。これはまさしく再生音楽の偉大なる進歩であり所産だ。
続きを読む現代に生きるマンフレート・アイヒャーという人間、ジャズ・プロデューサーの内面が表現された音という意味にそれを勝手に解釈しなければいられないほど、その音は個性的であった。
続きを読むECMの音ってどんな音?—−−という問いに対して正確に答えるためには、そこできける音楽のことにふれざるをえない。
続きを読む彼アイヒャーのジャズに対する愛情、時代を先取りした鋭い洞察、クラシックや現代音楽に対する深い造詣がそのひとつひとつに裏付けされていることがわかる。
続きを読む叶うなら、光あふれるあのレインボースタジオでもう一度、いまのピアノの音を録ってほしかった。
続きを読む2007, 8年頃オスロのRainbow Studioを訪ねた。その時同行したカメラマンが撮影した写真を掲載する。
続きを読む音楽に愛を持ち、ミュージシャンと一緒になり音を作っていく。僕たちは本当に偉大な人を失ってしまった。
続きを読むきみの演奏は多くの人に様々な力を伝えたようだ。そして、きみのベースアンサンブルのメンバーがきみのメロディーを力いっぱいに弾いていく姿を見ると、きみのスタイルが伝わっていることが分かる。そういう演奏をするベーシストはきみ以外はいなかったからね。しかし、最後は急ぎ過ぎたかな、お疲れ様でした、徹ちゃん。
続きを読む音楽の本質とは何かを常に問いかけてきた徹さんは、私にとっては試金石のような存在でした。
続きを読む海外取材の思い出話に花が咲き、そろそろと思って握手をした時、初めて児山さんの涙を見ました。
続きを読む児山先生の繋いできて下さったジャズの歴史が、きちんと受け継がれ、広まっていくのを恐らく先生は望まれている。
続きを読むミシェル・ルグラン@東京JAZZ 2011
続きを読むペリー・ロビンソンを一言で表すなら、”JOY”(喜び)だ。人生の中の喜び、愛、音楽、マジック(手品)、笑い。
続きを読む彼は誰の支配も受けることなく、彼の音楽は彼のスピリット同様いつまでも絶えることがない。
続きを読む彼の音楽スタイルは、ウディ・ガスリーやピート・シーガーの影響もあり “フリー・フォーク”と呼ばれた。
続きを読む2015年、ペリーと私はサンディエゴでデュオのギグとレコーディング・セッションを持った。
続きを読む現代の陳腐な生き方に決してへこたれない、幸せで、親切、かつ優しい男。
続きを読む彼はいなくなってしまったけれど、今でも聞こえるよ、見えるよ。
続きを読むペリーと僕は機上で7、8時間手品で遊んでいたんだけど45分くらいにしか思えなかった。
続きを読むこのイメージは全くの主観ですが、ジャズ・ヒッピーっていう感じでした。
続きを読むこの世における彼の生は終わってしまったのだろうけど、“まだ始まったばかりだからね!”
続きを読む彼の強烈なエモーションと、知的コントロールの共存する演奏に圧倒されたライヴだった。
続きを読む私はフリージャズを聴いたことがなかった。Bitchesで初めて触れることになった人間で、その世界を知らない。
続きを読む三人の演奏は、ヨーロッパ・フリージャズの草創期から今日に至る、その積み重ねられた年輪に裏打ちされた揺るぎない音世界を描いてくれた。
続きを読む会場は秋田の地酒メーカー「高清水」の醸造蔵を改装したイベントホール、会場一杯の約100名のオーディエンスが集った。
続きを読む今年の初め彼はNYから私に電話を寄越し、固く結ばれた二人は最後の会話を交わしたが、私はとても幸せだった。トマシュ、音楽をありがとう、心から感謝する。
続きを読むRIP Tomasz Stanko
続きを読む山田唯雄の素晴らしい点は、何と言っても、芯のある美しい音。その美しい音をダイレクトに捉えた録音の良さも特筆すべきだろう。
続きを読むALM盤とは違った側面を見せる今回のアルバムは、今後ALM盤と対をなすアルバムとして後世の記憶に残って行くのではないだろうか。
続きを読む松坂さんは、少女のようにチャミーングで楽屋で山下さんと打ち合わせていた時のはにかんでいた姿が今も忘れられない。
続きを読むここ数年セシルに会いたいと思ってきたけど、果たせなかった。そして、彼は逝ってしまった…。
続きを読むAbove three in Rav
続きを読むYes, that is a big loss!
続きを読むセシルも富樫さんももうこの世にはいないけれど、地球の自然に捧げた祈りは、続いていかなければ。
続きを読む1973年5月22日セシル・テイラー・ユニット@新宿厚生年金会館大ホール。アキサキラ(サワヒリ語で沸騰するの意)を捉えたトリオレコード営業部のアマチュア・カメラマン石井隆の遺作展。
続きを読むジミー・スミスから続くジャズ・オルガンの本流、源流を辿りながら研鑽を積み現在に至った土田の現時点での成果を堪能した。
続きを読むラズウェルのために書いた楽曲がピアノで作曲したように聞こえるという批評を受け、それからはホーンのためにはホーン奏者の身になって書くように心がけるようになりました。
続きを読む2007年、アムステルダム Bimhuisにおけるマーク・ドレッサーとのデュオ・コンサートから。
続きを読むハイスクールの頃、僕は彼のライナーノーツを繰り返し熟読したものだ。ラッドがいなければ、僕のブログDTM*が存在したかどうか疑わしいもんだ。
続きを読む彼は気高い(スピリチュアルな)男であった。彼の行程は光に満ちていた。
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