Jazz and Far Beyond
Aaron Parksの斬新なバンド、Little Bigの三作目が発表された。パークスの変拍子を変拍子と感じさせない作品と演奏スタイルや、彼の特殊なヴォイシングは相変わらずエキサイティングだ。彼の練習法や作曲過程などを交えて彼の特殊な世界の解説を試みた。
本アルバムを聴くことが「キース・ジャレットにとってピアノとは何か」を全てのキース・ファンが問い直してみる機会となることを期待したい。
キースとポールが16年ぶりに共演、それはジャック・ディジョネットの代役としてだが、逆に、菊地雅章やポール・ブレイらをサポートしてきたゲイリー&ポールのコンビに、キースが参加したと視点を変えるとそのサウンドは興味深く、重要な一期一会であったことが見えてくる。
試合と演劇の中間にある「オルタナティヴ・ロック」。
山口コーイチの演奏はどのような形態であれ普通ではない。本盤において、かれの視線の先には大きな船ではなくメンバーとの交感自体がありそうに思える。
ノーマ・ウィンストンがECMから6年ぶりのアルバムリリース。デュオを組むキット・ダウンズもやはりECMでの活躍が近年目覚しいピアニストだ。
NYCのファースト・コール・トロンボーン奏者であるライアン・ケバリーのグループ、カタルシスの新譜が発表された。あちらこちらにお楽しみ満載のこのアルバム、どの曲を取り上げるか悩んだほどだ。言葉で説明しきれないこのアルバムの面白さの解説を試みた。
「SENSES COMPLEX-五感を超えて、感覚が交差・拡散する地点」というギャラリーノマルのコンセプトの具現化に違いない。
庄子勝治、植川縁というふたりの対照的なサックス奏者が古いブッシャーのサックスを吹き、即興音楽のソロイストとは異なる独自性をもつ照内央晴がピアノを弾く。録音が山猫軒独特の気配をとらえていることも特筆すべき点である。
音が人である以上、本盤に収められた演奏だけが最上のものだと言うことはできない。だが、この音も聴くべきである。
天と繋がる歌声がある。まるで遠い時空の彼方から響き、いまを生きる者にそっと語りかけるような。
『Blue Glow』は、関西拠点のピアニスト、よしだゆうこ率いるクインテットDAZZ DAZZのデビュー盤。彼女の透徹した美意識がアルバムの隅々にまで感じられる。
参加した全ての演奏者達の魂のエッセンスが溶け込んでいるこの『渋吼』
神田綾子、マット・ホレンバーグ、パトリック・ゴールデン。さまざまな可能性が秘められたトリオであり、今後別の姿への変貌もあるだろう。
ヴァイオリニスト、喜多直毅のオリジナル曲で聴く個性的なタンゴ・クアルテットのサードアルバム。毅然とした姿勢、漂う重厚感、一気呵成に駆け上がる激しさに魅了される。
ジェイミー・バウムの新譜、『What Times Are These』が4月に発表された。彼女初の詩のコレクションをテーマにした作品だ。歌詞に対する複雑なメロディと巧みなアンサンブル、それを実現する演奏者たちの解説を試みた。
現代のジャズシーンはこれからどこに行くのか。という問いに答えたひとつの解答、美しい作品だ。
新進気鋭のギタリスト、Taka Nawashiroの2ndアルバム。聴くたびに新たな発見のある、とても味わい深い魅力的な作品だ。
まずはサウンド全体から受ける清冽な感覚に強く印象付けられる。ナチュラルであるから不自然な力みがなく、その一方で音の向こう側までの距離が長い。
日本フリージャズから佐藤允彦・森山威男のふたりのレジェンド、ロンドン新世代からアイドリス・ラーマンとレオン・ブリチャード。融合も摩擦もある異文化遭遇。
2024年の今日、Jジャズ界はまた一人新しい才能を見出した。
馬場智章がBIG YUKI と展開させる新機軸
芸術性の高い音楽と最高の録音技術が重なった時にしか味わえない、貴重な瞬間の連続。様々なシーンの描写も美しく、どこを切り取ってもECMのジャケットを彷彿させるような、創造性に満ちたものであり視覚でも楽しませてもらった。
同業者の記事を書くというのはなかなか容易ではないのだが、このアルバムはどの曲も素晴らしい。フィリップ・ストレンジの演奏も最高だ。麻生代さんとのZoomフルート談義やフィリップとのZoomジャズ談義などを交えてこのアルバムのタイトル曲の解説を試みた。
貴方は四人の聖者による福音を、今ここに三人の師によって伝えられた。貴方はもう家族だ。
彼は演奏家以上に、座長たらんとしたのではないか。それがボローニャのライブステージで上演された。50分のオペレッタ〜演劇になったと考える。
アナザー・ミュージックからアナザー・ワールドへのシフト。思考する音楽ユニットAgencementが導く音楽体験の醍醐味であろう。
琵琶の硬軟さまざまな音やパーカッションの濃淡(韓国伝統音楽ふうにいえば長短が成り立っている)による複層的な音空間。そこには安寧の強さも対話の愉しさもある。
NYレジェンドのイーヴォ・ペレルマンとウィリアム・パーカー、そしてかれらに伍するジム・クラウズとパトリック・ゴールデン。限りないエネルギーが聴き手に至福をもたらす録音だ。
中村泰子の人生経験が全人格的な存在感で聴き手に迫って来る。
夢にまで見たもう一つの『この素晴らしき世界』が届いた!
ジェレミー・ペルトの新譜『Tomorrow’s Another Day』はペルトの音楽が大きく飛躍したとこを提示している。シュトックハウゼンのスプライス・ミュージックをグルーヴ音楽にに発展させたディントニ・パークスを3曲でフィーチャーし、それに合わせてアルバム全体が驚くほどエキサイティングなものに仕上がっている。ペルトとパークス両者の作曲技法の解説を試みた。
名手ステファノ・アメリオの卓越した録音技も相俟って、ピアノ・トリオの秀作の歴史に加えても好い1枚。
進化し続ける二人の限界点越えのコラボレーションを直接体験できることは、2024年即興音楽シーンのハイライト、つまり不気味の谷ならぬ「明快な頂点」となるに違いない。
動物にせよ人間にせよ、集団意識の出発点として遊びがあるに違いない。そのドキュメントとして聴いてみるのもまた一興。
本盤はヴァイナルでのみリリースされる。ふたりの個性をなまなましく感じるという目的だけのために、このような制約があってもよいのではないか。
水音とピアノと電子音のミクスチュア〜反応が未詳な実験であるのか、人新世の前衛達なのか。
アメリカの多弦ギタリストKevin Kastningの最新アルバムは、ベーシストBruno Råbergとのデュオアルバム。浮遊感に満ちた刺激的でとても魅力的なサウンドとなっている。
リラックスした“ほ・ん・の・り”と気分良い時間を…、そんな感慨に浸らせてくれる好アルバム。
唯一無二のマルチ・アーティスト、金大煥をメインとした三十年前のパフォーマンスの未発表録音のCD化
ベースレス・トリオ「うむうむ。」のデビュー盤。関西拠点の古山晶子(sax)、関谷友加里(p) 、定岡弘将(ds)がハードな即興にもつれ込む刺激的なアルバム、ユーモアも満載。
フリー・インプロヴィゼーションを音だけの缶詰にすることには困難が伴う。ライヴと録音媒体とは本質的に異なるものであり、そのためリスナーの受容もライヴと同様ではない。だが、本盤に収録された36分間ぶっ続けの音には粗雑な要素が皆無であり、聴き手を惹きつけるものがある。
1981年にベルリン・ジャズ・フェスでライヴ録音された本作品ではすでに高瀬が優れた完成度を持っていたことに瞠目する。
今回の元テープは、高柳さんが75年8月26日に聴き返してチェックした内容を記したメモに従い修復された
《ほぼ完全に修復できたと確信してます。間違いなく高柳昌行の最高作の一つです。》と大友良英さん誇らしげです。
信州安曇野を拠点に活動するベーシスト中島仁の「Pioggia」に続くリーダーアルバム、第2弾! スウェーデン出身のサックス奏者をゲストに迎え、欧州ジャズへの敬意に満ちたトリオ作品。
果たして歌唱、アレンジ、伴奏そして録音、ジャケット・デザインのすべてにおいて抜群の出来栄えと申し上げておく。
奥平自身は一貫してジャズビートの純粋培養的なスタイルでリアルジャズの薫り高いパフォーマンスを展開していて、奥平が創出した空間に共演者たちを遊ばせるという包容力とリーダーシップを感じさせる。
ソプラノサックスとコントラバスのデュオはさほど多くないが、本盤は他のミュージシャンたちも触発しうるほどの作品にちがいない。日本のシーンでも広く共有され聴かれてほしい。
スウェーデンからヴォーカルの超新星登場
この4月12日にケニー・ギャレットの新譜がリリースされる。先行公開された1曲を聴いてすっかり虜になった。運よくアルバムのプロモーション音源を手に入れることが出来た。本人はアルバム全体で1曲と言ってる、そのアルバムはまさにマイルス愛に溢れている。コラボレーション相手のスヴォイがこれまたすごい。書いていて興奮してしまった。
最初にCDで聴いた時には前情報は何も知らずに聴いたのだが、一聴してミクスの集大成的な作品という印象を強く受け感動しました。
多種のリズムのサラダボウルを遊び心たっぷりに料理するワイスの”勝算五分五分”トリオの創造の泉は滾々と溢れ続ける。
目まぐるしく変化する声、異世界へ誘う「歌」を繰り出す神田綾子、ピアノとパーカッションから、繊細な表現も大地を揺るがす激しさも、自在に生み出すsara(.es)。宇都宮泰が録音・マスタリングを手がける2人のライヴ盤。
コントラバスという楽器は単数でも複数でもある。幅広い周波数の葉叢を発生させるだけに、その音にはひとりの演者の意思を超える匿名性がある。また、矛盾するようだが、同時に演者の個性がもろにあらわれる。田辺和弘、瀬尾高志、田嶋真佐雄はそれぞれに自身の音を追い求めてきた者たちであり、なおさらのことだ。
ニカラグア出身の熟達な知性派ピアニスト、ドナルド・ヴェガの新作、拾い物とも言えそうな仲々の逸品だ。
本盤は<渡良瀬>1曲のみのアンソロジーという極めて特異な構成であることはプロデューサー若杉実氏の意思であり板橋の意思でもあったことだろう。
ピアノ、フルート、 クラリネット、ヴァイオリン、チェロという、クラシック界でもなかなかお目にかかることのできないユニークな編成による、とてもワクワクする楽しくも美しいジャズ・ミュージック!
今まで経験したことのない異次元の聴覚体験による甘美なカタルシスの快感に溺れていく。
Anode/Cathodeがでっち上げだったお陰で、日本地下音楽の深淵に人知れず輝く第五列と金野 “onnyk” 吉晃という宝石を再発見する幸運に巡り合えたわけだから、これこそ「嘘から出た真実(まこと)」であろう。
台湾出身のピアニスト、ルォー・ユー・チェン(陳若玗)が5枚目のリーダー作を出した。デビューから一貫して起用しているクリストファー・トルディーニ(ベース)、トミー・クレイン(ドラムス)と組んでのピアノトリオである。彼女は独自のジャズ表現を追求してきたが、驚いたことに、ここにきてシューベルトとモーツァルトの曲を取り上げた。だが、その表現姿勢はぶれていないことは、聴き込むとわかる。
ウェス・モンゴメリーというジャズギター界の巨人の圧倒的な存在感を示すライヴ・パフォーマンスが、今日このような完全な形で全貌を聴くことができるのは奇跡的だろう
前回楽曲解説#98でご紹介したチャーリー・バレンタインの伴侶であるアマンダ・ガーディエィの新譜が発表された。ドラムに「The Bad Plus」のディヴ・キングを迎えてご機嫌なアルバムだと聴いていたら、アマンダのとんでもない作曲のアイデアの数々に気がついた。Zoomインタビューを交えて彼女の素晴らしさの解説を試みてみた。
小曽根 真が、気鋭の小川晋平、きたいくにとと結成したニュートリオ「Trinfinity」のファーストアルバム。アルトサックスの佐々木梨子、パーカッションの二階堂隆文の在米の若手の参加も注目だ。
さまざまなジャンルで活躍中のクリヤ・マコト(pf)と安井源之新(perc)による強力なユニット、「RHYTHMATRIX」の豪華ミュージシャンを迎えた待望の新作!
好漢川嶋ならではの印象的な逸品だ。
ミュージシャンの演奏が主体にあるが、即興音楽のクォリティの高さを際立たせているのも、録音・マスタリングの宇都宮泰の存在があってこそ。彼もまた音楽創造の一端を担っている。本作は、場を作ったギャラリーノマル、演奏したミュージシャン、宇都宮泰による録音・マスタリング、それらの協働によって創られた作品と言っていい。
そんな大きなスケールが背後にあっても、ムジーククーゲルの表現は、なお清楚でたおやかだ。
トニー・ヒギンズ、マイク・ペデンのBBEレーベルの仕事ぶりに感動すると共に、和ジャズの秘境の奥深さに触れることができた。
日本を代表する3名のミュージシャンによる、最高に心地良い、洗練された極上のアコースティック・サウンド!
注意深く耳をそばだてれば、コミュニケーションが現象となるありよう自体を音楽として受け止めることができる。トリオとしての可能性がさまざまに模索されている作品である。
ジュデイの若き日の著名なエンターテイナー達とのデュエットを楽しめるアルバムだ。
今日本をツアー中のHiromiの新しいバンド、「Hiromi‘s Sonicwonder」の新譜が届いた。このバンドはすごい。特にフランス人ベーシストのHadrien Féraud (アドリアン・フェホー) に思いっきり顎落ち状態になってしまった。収録曲も全て素晴らしい。彼女のユーモアのセンスも充分楽しませてくれた。今回彼女の曲を分析してみて、今まで気が付かなかった彼女の細かい作曲技法を知った。
イギリスの即興演奏家ジョン・ブッチャーの最新作はソロ・アルバム。サックスという楽器による表現をとことん追求して到達したひとつの境地、音世界がここにある。
テリー・ライリーの音楽は、完結しない世界なのか、永遠の安寧としての涅槃なのか。
自由奔放なサックスがリードするスリリングなサウンドには即興ジャズに通じるアヴァンギャルド感覚が溢れている。
マタナ・ロバーツのライフワークともいうべき『Coin Coin』の最新作が発表された。キーワードは「名前」だ。
リー・リトナーの「ダイレクト・レコーディング」シリーズの3作目。「ダイレクト」シリーズ中の最高傑作のひとつ。
リー・リトナー&ジェントル・ソウツのデビュー・アルバム。1977年作品。「ダイレクト・カッティング」盤を最新リマスタリングしUHQCD化して再リリース
リー・リトナーが1977年に「ダイレクト・カッティング」盤として制作したアルバム『ジェントル・ソウツ』の別テイク盤。
エリック・ゲイルの参加した、リー・リトナーの「ダイレクト・カッティング」シリーズ第2弾。初顔合わせのメンバーによるインタープレイを克明に記録した貴重なアルバム。
「ダイレクト・カッティング」でライブ感のある演奏を追求してきたリー・リトナーが、楽器や録音機器のデジタル技術による大きな進化をとらえてそれらを活用し、新しい形でライブ感を表現した一枚
1970年代後半から1980年代にかけ日本国内でブームを巻き起こした「クロスオーバー」「フュージョン」ミュージック。その中心にいたギタリストたちの演奏を集めたコンピレーション・アルバム。
80歳を過ぎてなお「停滞を好まない。精神の、自由な飛翔」を目指す佐藤の音楽に対峙する真摯な姿勢
ロフト・ジャズ時代にオーネット・コールマンの旧Artist Houseで録音された一期一会の歴史的名演奏。
イリアーヌ・イリアスのグラミー・ダブル受賞の『ミラー、ミラー』とジャズ・ボッサの『クァイエトゥード』の最新2作同時国内発売。
もはやジェームス・ブランドン・ルイス(JBL)のことを現代のテナー・タイタンと呼んでもよいだろう。意外というべきか、そのJBLが自身の音楽的ルーツのひとつとしてゴスペルを取り上げ、それによって偉大な歌手マヘリア・ジャクソンへの恋文のようなアルバムを作った。
大好きなDonny McCaslin(ドニー・マッキャスリン:日本ではダニー)の参加アルバムが届いた。知らないJoel Goodman(ジョール・グッドマン:日本ではジョエル)というアーティストの作品だったので期待せずに聴いたら、これがとんでもなくすごいアルバムだったのでここにご紹介する。是非お楽しみ頂きたい。
デンマーク最高のジャズ賞 Danish Music Award で Jazz Album of the Year を受賞したピアニスト、平林牧子が放つトリオ・アルバム第5弾
このアルバムの出来の良さに関しては解っていたつもりだが、聴き込むほどに感動する
本作は絵筆代わりにギターで描いたサウンド・ペインティングであり、”100%組原正”のプライベート・コレクションである。秘密の日記を盗み見(聴き)する禁断の歓びを味わえる愛おしき作品。(地下)音楽愛好家にとってこれ以上の至福はない。
フリー・ミュージック、アンビエント、プログレッシヴ・ロック、現代音楽、民族音楽、サウンドアート・・・。そのいづれでもありどれでもない正体不明の我楽多音楽。行き過ぎることを恐れない地下音楽の精神を諧謔趣味の遊び心で継承するシン・即興派の神髄がここにある。
三者が各々の楽器の範を越える事無く自然に「対話」している
原智広、岡崎凛による共同レビューの第3弾は、前回に続いてスイス出身のピアニスト、マルゴー・オズワルドを取り上げる。前回はソロだったが、今回はサックス奏者イェスパー・ツォイテンを迎えたデュオ作品。
9月15日に発表になったジョシュア・レッドマンの新譜、『where are we』がちょっとすごい。彼の初の試みである歌手の起用とコンセプト・アルバムとしての内容がなかなか面白い。だがなんと言っても1曲目で完璧にやられてしまった。今まであまり聴いていなかったジョシュアの解説を試みた。
ステファン・グラッペリ直系のヴァイオリン奏者、マティルド・フェブレール渾身のグラッペリ・トリビュート・アルバム
藤原清登の目指す音楽的方向性は明らかにミンガス、ヘイデン路線に接近していると考えることはできないだろうか。
深いリバーヴに包まれた音楽創造空間としてのギャラリーノマルが眼前に広がる体験を与えてくれる。これこそ聴覚スペクタクルの極致といえよう。
全体にブルース色が前面に出ており特にリズム・パターンにそれは顕著だが、ソロやヴォーカルを支えるアンサンブルはまさしくベイシー・サウンド。
欧州ジャズを継承し、叙情性溢れる作品を作り続けてきたピアニスト、林祐i市の新トリオ、デビュー盤。心地よいリズムと爽快感がアルバムの隅々に行き渡るピアノトリオ作品。
2021年に亡くなったチック・コリアが、2018年に行ったモーツァルトとガーシュウィンのコンサートを生き生きと記録、クラシックとジャズを繋いだキャリアを締めくくる重要な録音となった。
「すべてが完成していたら、前途にはもう何もないのです」というイリヤ・カバコフの言葉通り、果て=完成がないからこそヒカシューはどこまでも行けるのだ。
プラハ屈指のビッグバンドの指揮者としても知られるシュチェパーンカ・バルツァロヴァー(tp)の新作。ワンホーン・カルテットの構成で、テーマは心理学者の分類による「人間の8つの感情」。今回も伸びやかなトランペットの音が魅力的だ。
その響きは、現代社会と同じく、いや人類の歴史と同じく、調性とノイズのせめぎ合いである。
この
、全てのサックス奏者に「バラッドはこう吹け」と言いたくなる、涙無くしては聴けない珠玉の1曲。その親和性は抜群だし、ユニットとしての統一感もグッド、聴くものを深い寛ぎと安らぎへと誘う。
MPBの生き字引アントニオ・アドルフォがボサノバ運動の主要メンバー、カルロス・リラとホベルト・メネスカルの作品をフィーチャー。
アルバム・タイトルが示唆するとおり、コミュニケーションの極意は「分かりあえなさ」であることを知り抜いている。それ故の同時発話的な自由。演劇的・室内楽的な構築性を保ちつつ、フォーキーかつフリー、等しく個々の断片も光る。/ As the album title indicates, they know the fact that the essence of communication is its impossibilities for mutual understanding, then, followed by “all-at-once-ness” in the chatty but not-crowded mood. While keeping theatrical, chamber music-like constructability, the composition of Tristan Honsinger makes junctures for folky and free approaches, equally emphasize the tension of individual fragment.
本作は音と音楽の狭間での集団即興を行う特異なプロジェクト、マージナル・コンソートのライヴを捉えた作品性の高いドキュメントだ。
曲間のブランクはあるものの全体が寄せては返す怒涛のように連続しているのであって1曲1曲の解釈は不毛だ。
「a little new one」の独創性と謝明諺の懐の深さは奇妙にマッチしている。このバンドも刺激剤のひとつとなって、アジア内での表現者たちの交流がふたたび活発化してゆくにちがいない。
Donny McCaslinのすごい新譜が出た。常に限界に挑戦するようなサウンドだった彼の音楽がパンデミック中に進化を遂げた。このアルバムは彼の向かっている方向がはっきりと提示されている。Zoomインタビューで明らかになった意外なこのアルバムの真意を紹介しながらそれぞれの曲の解説を試みた。
アビシャイの長年の夢の実現ともされるラテン・ジャズ・プロジェクト作。
演奏の質の高さ、森山の好調さなど見逃せない優れたドキュメント。
「エレクトリック・ギター」を「一人で静かに様々なアイディアを組み入れて弾く」これまでは無かった演奏スタイル。
2021年に急逝したヴォーカリスト、遠藤ゆかりへのトリビュート盤。4人の音楽家が故人の思いを継いで創り上げたアルバム(Disc 1)、遠藤ゆかりの未発表音源(Disc 2)を通して、パーソナルな記憶を超え、90年代の音楽文化が現在のジャズへとつながっていく。
群雄割拠の様相を呈している、東京のラージ・アンサンブル・シーンに、期待の新星が登場した。多くのビッグバンドや、ポップスのホーン・セクションで活躍する池本茂貴(tb)が、俊英たちを集結した13人編成のアンサンブルisles(アイルス、池本茂貴ラージ・アンサンブル)のデビュー作と、その背景に迫る。
小曽根さんを取り上げるのは今回で3度目になる。第一回は小曽根さんの指先から虹のように溢れ出るアイデアを、第二回はモーツァルト言語まで習得している彼の凄さを取り上げた。今回は日本ツアーを先日行ったこのスーパー・カルテットの10年前のライブ録音のリリースを機に、彼の作曲作品に焦点を当ててみた。ご機嫌なグルーヴと、小曽根さんがソロピアノで見せる自由な発想を可能にするこのコンボの解説も試みた。
まさに「即興は砂の城」と言わんばかりの刹那的な美意識だけが持つ高揚感に溢れている。
クラシック音楽へのリスペクトの上に作り込まれた緻密なストーリー構成、主演ケイト・ブランシェットの怪演に圧倒される。張り巡らされた伏線から衝撃の結末へ、音楽と人生にとって大切なものは何か観る者に問いかける。
マイルスの甥っ子で、80年代前半のマイルス・バンドに参加していたVince Wilburn Jr.と、19歳の時に『Bitches Brew』に参加したLenny Whiteというドラマー二人によってプロデュースされたこのマイルス絡みのアルバムはともかくすごい。マイルス愛を満載しマイルスのスピリッツを継承しながら新しいサウンドを追求している。レニー・ホワイトの素晴らしい作曲と鍵盤演奏に感銘。ヴィンスに聞いた色々な話を交えて分析を試みた。
Utsunomia MIXで再現されるギャラリーノマルとsara(.es)の無尽蔵の創造性は、聴く人すべてにこれまでの音楽作品とは一味違う豊穣な聴覚体験を与えてくれるに違いない。
ここには決定的に欠けているものがある。それはまさに「ウタ」であった。
ジミヘンがいきなり世界中からロックスターとして注目されたのと対照的に、タジはひたすらブルースを追求し、その中で革新を試みた。
Bluesy、Funky、GroovyというAmericanなテイストとは違った静謐で知的な空間が拡がる本盤
ソロにより自身の記憶への旅を音として提示し、デュオにより会話し触れ合う展開が、成熟した大人のありようである。
さよなら、ドレイク。こんにちは、ドレリ。
ふたつのRebel Music(反逆の音楽)が、世代や文化的背景や音楽スタイルの違いを超えて「ひとつ」になり得ることを証明する、タイトル通り『進化する出来事』を記録した作品である。
全体を通してどことなく架空の映画のサウンドトラックのように感じられることも、ファーストと同じだ。
品行方正がクラリネットの特徴なのかどうかはわからないが、作曲と即興の交差点/自然と音楽の接点に位置する自制のとれた作品として成り立っている。
本盤には馴れ合いに堕することのないぴりぴりとした空気が張りつめている。たしかにこのサウンドはライヴそのものだ。
PhotayとCarlosは、きっと「地上の生の光景」そして「存在」を水の存在を通してわたしたちに、ある生きる祝福の記録として、音楽という贈り物を残した。
元々曲ごとの構造性を明確にするのがガリオの特徴だったが、その傾向はこのヴァーサタイルなトリオで顕著になった。
コンテンポラリーという名の目新しさ云々よりもまず先に、卓越したメロディストとしての抒情性、音楽創りのセンスそのものである当意即妙な身体能力、といったコア部分が充実の漲り(みなぎり)で抜かりなし/They go beyond the notions of novelty associated with descriptions like “contemporary”, delivering a rich core of melodic lyricism tied together with excellent musical taste and playing full of wit.
コペンハーゲン拠点の若手女性ピアニスト、マルゴー・オズワルドがデビュー盤となるソロピアノ作品をリリースした。タイトルの『Dysphotic Zone』とは、深海と呼ばれながら、かろうじて光が届く層・水域を指す。本作が描くものについて、フランス文学・映画に詳しい原智広氏とともに考えてみた。
ウクレレでジャズ!粋だ。
彼の最新作を聴き終わり、音の余韻の中で立ち現れた言葉は、TAOだった。
「ヴィレッジ・ヴァンガード」に集った熱心なジャズ・ファンも、この2人に優しく時に激しく揺さぶられ、その当意即妙な“対話術”に癒され、魅了され尽くす。
カンザス・シティ出身のハーモン・メハリは、フランスのパリに活動の拠点を定めもう6年余り。欧州の地にしっかりと根を下ろし活動しており、その行動領域だけでなく守備範囲の広さも、彼の音楽を特徴付けている。
それでも今回の作品は突破口となる可能性が充分ある。百枚目といったって単なる通過点でしょう、と涼しい顔をしそうだが、
JUSUが奏でる音楽は、島々の存在に触発され、様々な語りの中から、彼らの感性を通過して生まれたのだと思う。
レコード(記録)として残すことへの熱意から生まれたのがJUKE/19の作品群だと考えれば、リリースから40年以上経って、リマスター&特殊パッケージのアナログ盤として再び世に出ることは必然なのではなかろうか。
全12曲どれもが実力派ならではの仕上がり具合で、このところいささか停滞気味のJボーカル・シーンにあって、久々に手応えある一編と言える。
まずはタイショーン・ソーリーのサウンドの驚くべき大きさに魅了される。そして剛に柔に演奏を駆動するウィリアム・パーカー、かれらと対等に渡り合うスティーヴン・ガウチの個性と戦略。
このCDの演奏の印象をもし一言でというなら、まさに朝焼けの空にたびく雲の静けさかもしれない。
ざわめきを孕んだ成熟の時は凪を見つめる。それはひとりぼっちの情景かもしれない。大丈夫。畠山美由紀の声が、今宵どこかの庭で囁いているから。
新澤健一郎、楠井五月、石川智 のトリオが、2022年7月に「中目黒 楽屋」で行った演奏を収めたミニ・ライブ・アルバム。
スロヴァキアのトランぺッター、ルカシュ・オラヴェツ(Lukáš Oravec)とモラヴィア・フィルハーモニーの共演盤。ダニー・グリセット(p)、アンディ・ミドルトン(ts)参加。中欧のポストバップを継承するオラヴェツの風格あるオリジナル曲を、卓抜なアレンジで、壮麗なストリングスとともに聴くアルバム。
このアルバムに収められた壮大かつ豊潤な音楽は、ファースト・ネイションという特定のコミュニティに限定されるものではなく、人間一人一人に流れる血の歴史の永続性に思いを巡らすために、重要なヒントを与えてくれる「導き」と言えるだろう。
サブ豊住。パワーもテクニックも若いときを凌駕している。つまりこの人はまだ発展途上なのだ。
アイヘンベルガーとガリオは、ユニゾンに歩み寄りながら、着かず離れずの距離で、束縛された即興を楽しんでいる。
オーブリー・ジョンソン (vo)、ランディ・イングラム (p) によるデュオ・アルバム。このアルバムは、ぜひ一度全体を通しで聴いてみることもお薦めしたい。
10人の鍵盤音楽家たちは出会ったことのない、未知のルグランをそれぞれ「想いだして」リ・イマジンする。
中牟礼のライヴでは毎度のことだが、事前の打ち合わせは一切なく、ステージ上で初めて手の内を見せ合うという、緊迫した演奏が連なる。
ベーシスト、バール・フィリップスの新作は、シンセサイザーを駆使するジェルジ・クルターグ・ジュニアとのデュオ・アルバム。溢れるシンセ音の中で、コントラバスの音の輪郭は、いつものようにくっきりと明瞭だ。そして2人は激しさと穏やかさの両極を行き交う。
ジェイミー・ブランチの『Fly or Die』連作を聴いていれば耳に残るいくつものメロディが、ノエル・アクショテの歪んだ時空間の中で立ち現れ、そうだ、この生命力の奔流がジェイミーの音楽だったのだと、あらためて気付かされる。もう彼女の新しい音を聴くことはできないが、再発見を続けることはできる。
ピーター・エヴァンスは、フルートとピアノとの組み合わせがおもしろいと思ったんだと平然と言ってのける。この途方もないポテンシャルは次にどのような形をとってあらわれるのか、想像などできようはずがない。
ヴィブラフォン山本玲子、ピアノ柳原由佳、パーカッション相川 瞳が2021年に結成したユニットのファーストアルバム。タイトルが「風と花」を意味するように、爽やかでポジティヴな空気感の中で三者が美しく色彩豊かな音楽を紡ぎ出す。
矢野顕子がパット・メセニーらの参加も得て、1991年にニューヨークで録音した『LOVE LIFE』。深田晃司監督がこのアルバムに着想したストーリーを映画化。公開に合わせアルバムのアナログ盤もリリースされた。
ブロッツマンと灰野という二人の音楽家の長い人生の旅路の交差地点が4枚のレコードに集約されているように感じられる。
各々の音楽に対する「ブレのなさ」は、即興とはいえ胸のすくようなパノラマと壮麗な構築性を「結果として」もたらしている。
フィンランドのレーベル・We Jazz Recordsのリリースしたアルバム10枚を音源として自由に使ってよいというルールに基づいた作品であり、レーベル内の宝さがしの試みだと言うことができる。その意味でカール・ストーンにとっても新たな刺激発見の過程だったのではないか。掘り出された個々の要素がストーンの音楽の中で新たに手足を伸ばしてゆく可能性だってないとは言えないのだ。
『アルケウス』が齎(もたら)す、誰も見なかった、そして誰もが見る夢の残像は、しかしまた私の物語になりきれず、虚空に消えて行く。
2016年ヨーロッパツアーから生まれた、美しく生き生きとした小品集。キースが紡ぎ出す歌の最終発展形を知る上でもぜひ一聴をお勧めしたい。
2015年のバンド結成時からの成長、そして今、「開花」と言う意味で「Bloomin’」と名付けられた。
「あまちゃん」をきっかけに結成され約10年を経てバンド名義の初スタジオ録音盤。COVID-19下の2020年6月に制作を開始、メンバーが集い、遠く離れた仲間たちとリモート録音を行なったため、異なる彩りや賑やかさが生まれそれがこのアルバムの魅力となっている。COVID-19の困難な状況と想いがあったからこその緊張感がポジティヴに作用し素晴らしいアルバムに仕上がった。
有名な武満徹と谷川俊太郎による反戦歌、「死んだ男の残したものは」は、最近のきな臭い世の中、胸にこたえるものがある。
“歩くブラジル音楽”アントニオ・アドルフォのオリジナル集と、関西圏を活動拠点にしているシンガー、新田佳子のジョビン集の新作2点。
クリス・ピッツィオコスの作曲家・理論家としての才能を詳らかにする野心作であり、即興音楽を内包した作曲音楽の現在進行形を明らかにする注目作である。
音楽だけでなく映画や書物も作ること、旅を愛することが、ブライアン・アレンという不思議なトロンボニストの思想を形成しているように思えてならない。このアルバムも、旅の途中のスイスでゲオルグ・ホフマンと会い、持ち歩いていたプラスチックの軽いトロンボーンで初めて手合わせし、なにかのプロセスの音として作ったものだ。
2013年公開の映画のサントラの10年後の国内発売が “ 時宜を得た” と言えるほど時代はますます危機を孕みつつある。
灰野も彩も、言葉や旋律のないヴォイス・パフォーマンスを得意としているからこそ、「歌」だけでなく「声」によるコラボレーションこそが精魂の個性となり得るのである。
協和と不協和の間の緊張に身を晒し続けるカール・ベルガーの音。この巨匠の音に、ひとまわり下のビリー・ミンツが繊細さを与え、若いマックス・ジョンソンは柔らかくも太くもあるコントラバスでふたりのヴェテランの紐帯となっている。
インプロヴァイザーの演じる領域を用意したコンポジションであり、あるいは逆にコンポジションにインプロヴァイザーが自身の表現のために介入したものでもある。結果としての折衷ではなく、両者せめぎ合いの過程が音の緊張感となって刻み込まれている。
大好きなTheo Crokerの新譜が発表された。前作に続く3部作の2作目だ。今回も最高の出来だが、前作とかなり違う。謎のアルバムタイトルの意味や、「ジャズは死んだ」と繰り返すそれぞれの曲の解説を、本人のコメントを交えて解説。
そもそも、(カーラ・ブレイに)妖気など初めからなかったのだ。
渋谷毅は教えてくれる。
わたしは、シャツ一枚を着てピアノを弾く姿、そしてそんな音楽を奏でる「渋谷さんが大好き」だ。
このトリオはテザード・ムーンよりも意志の力で抑制されており、それでいてテザード・ムーンに匹敵する音の強靭さを保っている。
彼らが吐き出す三つの音の蜘蛛の糸の絡み合いが、雑踏時代の人類と音楽の関係を再定義する兆しになれば是幸いである。
ブノワ・デルベックはボードレールや、パウル・ツェラン、ボリス・ヴィアンを愛していた、音楽よりも先に文学を好んだらしい。音楽でいうと、セロニアス・モンク、ポール・ブレイ、つまりは古典であると同時に前衛的なものに接し自身の「声たるものを」発見していく、…
『Swallow Tales』から2年を経てCOVID-19下で自宅録音した初ギターソロアルバム。ルーパーをシンプルに使い、セルフデュオ的で程よいエフェクトを組み合わせたような感覚の心地良いサウンドを創り上げた。
この3月17日に発表されたブラッド・メルドーのこの新譜には度肝を抜かれた。今まで知らなかったメルドーのグルーヴ感や、彼の音源オタク性を堪能させてもらった。プログレッシブ・ロックの名曲の数々を使って旧約聖書を紐解くメルドーの、この素晴らしいアルバムを分析してみた。
スカッとして心地良く、快感とでも言えそうな至高の”ブラジリアン・サウンド”、それに久々に触れた
若い世代の忌憚のない演奏を心底受け止め、2020年代の森山威男という大きな像が仁王立ちしている。
ジャズは、過去を、未来を、そして今を生きるわたしたちに寛容である、と吉野さんのソロアルバムは教えてくれた。
ここにはCON TONたるスープ「フリージャズ」がある。フリーであり、ジャズであること。それが騒乱武士の矜持だ。
神性を剥ぎ取られたパイプオルガンの音色は何と無垢で脆いのだろう。デルフィーネ・ドラのヴォーカライズが教会オルガンの空っぽの心を慈しみで満たす。21世紀の”歓喜の歌”は斯様にあるべきなのかもしれない。
中国語圏で中国語によるジャズを歌う試みはさほど多くはなかった。本盤はその新世界に向けた一里塚となるにちがいない。
楽器も場所も彼女自身と言っても過言ではない最高に理想的な環境で生み出されたピアノ演奏は、この上なく優しく自由で、母の胎内にいるような安心感に満ちている。
河崎の夢「ユーラシアン・オペラ」とは、失われたグラン・レシ=大いなる物語の断章を拾い集める作業ではないのか。とすればそれに接するものは、自分でその物語を想像することが許されるだろう。河崎純は我が夢の導き手である。
生きている “歓喜”と“希望” を実感し、さらに音楽の根源的な “癒し”の力にも触れられるジャズ・アルバムとして、皆様にぜひお勧めしたい。
ポーランド出身のトランぺッター、トマシュ・ドンブロフスキのセプテットによる、トマシュ・スタンコ(tp)へのトリビュート作。うなりをあげる電子音や個性的なツインドラムに、管楽器の美しいハーモニー、荘重な楽曲に満ちるリリシズムがじわじわと心に迫る。
このアルバムから筆者が感受するのはサックス演奏ではなく、息=呼吸=空気(l’air)の聴覚ドキュメンタリーである。
とにかくトリオの新しい試みは、スウィンギーな細密画のような印象だ。それは例えば「オルタナティヴ・ロック」を彷彿とさせる。
ウッドベース弾き語りでも注目を浴びる気鋭のベーシスト石川紅奈と、バークリー音楽大学を主席卒業後、ボストンで活躍し帰国したピアニスト壷坂健登のデュオが「soraya」という名前を得て、初シングルをリリースした。
河崎純によるユーラシアン・ポエティック・ドラマのCDが、3月に発売された第一作目『 HOMELANDS』に続き、第二作目『STRANGELANDS』もBishop Recordsから間もなくリリースされる。両作品共、河崎のユーラシアンオペラ等での活動が基盤となって制作されたCDだ。独自の発想で創作を続けてきた彼の言葉を引用しつつ、これらの作品の成り立ちについて書き留めておきたい。
詩から解放された歌、意味から解放された言葉を歌うヒグチの声は呼吸と一体化し、体内をめぐる血液のように、ずきんずきんと鼓動する。
音楽だけに留まらないミルフォード・グレイヴスの魅力と、それに感化された演奏家たちの交流のドキュメントとして、想像力を逞しくして味わい尽くしたい芸術品である。
ロンドンのサックス奏者マッシモ・マギー、ドイツ・カッセルの三味線奏者ヨシュア・ヴァイツェル、日本のエレクトロニクス奏者の池田謙は、打楽器奏者エディ・プレヴォ主宰のワークショップで知り合った仲である。プレヴォも、また最近帰国した池田も、長い間ロンドンが活動の拠点だった。したがって、このときヴァイツェルのみが海を渡り、ロンドンのCafe Otoに集まったことになる。
高木のサックスの音色の美しさは特筆ものだ。吉沢が加わることで演奏の空間をぐっと広げ、演奏の密度を一気に濃密にしている。
この “ザ・ブレンド” は、ジャズ・サウンドを展開、全員の迫力あるソロ・ワークを前面に押し出しており、ライヴ・バンドならではの本源的な力強さと蠱惑力に溢れた卓抜なものとなっている。
待望のロバート・グラスパーのBlack Radioの3作目がリリースされた。これは単なる娯楽作品ではない。政治的な話題を公の場で意見することを好まないが、このアルバムの背景として、危険を承知でアメリカの人種問題に少しだけ触れてみた。楽曲解説としては、グラスパー・マジックである彼のボイシングやテーマの構成を解説。
その音楽には、コスモポリタン的な感性が生み出す自由さ、そして音楽的ルーツが希薄な都市に生活する人ゆえの彷徨う感覚を嗅ぎ取ることができる
縄文、弥生、旧石器時代への憧憬、いや回帰を宿命とする音楽家土取利行は、 その故郷讃岐でサヌカイトに出会う。
ヨーロッパの最深部に蠢く音楽共同体ザ・ドーフが真のD.I.Y.精神を発揮して作り上げた新世代のプロテスト・ソングには、不条理の時代に表現のユートピアを作ろうとする強靭な意思が漲っている。
歴史的な記憶と想像力によって豊かな世界を提示する「ユーラシアン・オペラ」。コロナ時代にまた素晴らしい作品を作り上げた。
パーカッションの山㟁直人、笙の石川高、尺八のアンドレ・ヴァン・レンズバーグによるトリオ。40分強のサウンドのどの時点もプロセスとして大事なものであり、ときにぞくりとさせられる瞬間がある。
ダウンズの音楽の印象をかたちづくるのはシンプルな旋律と構造そのものの組み合わせ。だから一聴してもつかみどころはない。
1991年生まれ同い歳のピアニスト魚返明未とギタリスト井上 銘の初デュオアルバム。透明で美しく洗練された響きの中に微かに感じる”夏の草の匂い”や”汗の匂い”のような感覚が、聴く者を懐かしく爽やかな不思議な時空へと誘う。
沖縄電子少女彩というアーティストにとってこのアルバムは一つの達成だ。のみならず、沖縄音楽というジャンルにとってもまた一つの達成だろう。
ハーシュ自身が全てのコンポジション、アレンジメント、音づくりを掌握、構成していて「セルフ純度」が高い。
注目のラトヴィア・ミュージシャンの選りすぐり曲を集めた2枚組。リューダス・モツクーナス、アルヴィーダス・カズラウスカスの渋いサックスデュオも、ジャズ最先端を目指す若手も、大御所ライモンズ・パウルスの若き日の演奏も、みんなアツい。
アダム・ルドルフと9人のギタリストが創造した『共鳴体』は、音響による宇宙の箱庭化であり、モーゼの『創世記』に描かれた天地創造の再検証と言えるだろう。
ニューヨークでもパンデミックの隙を見つけて演奏活動が続けられている。サックスの石当あゆみ、ピアノのエリック・プラクス、ベースのザック・スワンソン、ドラムスのジョン・パニカー、それにマルチ・インストルメンタリストのダニエル・カーターが加わった。自然体にして遠慮することのないおもしろさがゆっくりと伝わってくる演奏だからこそ、この続きもまた聴きたくなるというものだ。
ブライアン・アレンが雑誌、アート、音楽、映像を組み合わせた手作りの作品を出した。かれのことを旅する音楽家と呼ぶだけでは不十分だ。かれの視線や表現が旅そのものなのだ。
ジェーン・ホールのこのアルバムを聴いて、微妙な味わいを解さない聴き手がいたら、その人物はよくいる美人ヴォーカリストのファンと同列の耳しか持っていないと断じてよろしいと思う。
アルフレート・23・ハルトが韓国移住後に崔善培と吹き込んだデュオの希少な演奏が発掘された。ゲッベルス=ハルトの流れを受け継ぐハルト=崔のサウンドである。
このアルバムがジョン・コルトレーンの未発表音源に匹敵する、などと言うつもりはないが、どこでも聴けるコルトレーンよりも、誰も知らない異能ミュージシャンの未知の音楽との出会いに喜びを見出す音楽ファンも少なくないに違いない。
2019年のマンスリーライヴで振り返った過去40年間の楽曲と、緊急事態宣言下で即興で制作された前作『なりやまず』の両方の要素、つまり作曲と即興が混然一体となったヒカシュー・ワールドの現在進行形が集約されている。
バッハ好きの方、コルトレーン好きの方、全ての方達がぜひこの試みを、耳にして欲しいもの。なにせ紛れもなく世界で初めてのものなのですから…。
高木が小杉の音に野心的に近づいた。高木のソプラノサックスが管を共鳴させる息を感じさせる形勢もあるのだが、それ以上に、ヴァイオリンの擦音に憑依し、あるいはエレクトロニクスと化し、高木の並々ならぬ力量をもって小杉の音領域で重なってみせていることは驚きである。
「非連続の連続」という厳しいまでの「無常なる時空間の原動化」、これが神社で演奏されたとは驚きと言う他はない。
この時期の高木さんには「歌・メロディーへの回帰」が見られ、このCDでも「アリラン」、「小さな花」、「家路」、「不屈の民」、「バラ色の人生」等々が聴ける。
「大渦潮」を意味するバンド名通り、ありとあらゆる要素を巻き込んでぶち壊してから新たな音楽を生み出すマルストロームの方法論こそ、<破壊なくして創造なし>という真理を音楽の最前衛で実践する新世代パワートリオの証である。
フランソワはいつもリアルタイムのアタック、強度、速度を追求している。これが音楽を牽引している。
リズムやテンポの変化が複雑で目まぐるしく、絶えず体制変更をみごとに行うことを前提とした先鋭的な音空間であり、前作と比べ、先鋭からやや内省へとヴェクトルを転じた。背景には後述するようにコロナ禍があった。
松田美緒とウーゴ・ファトルーソのアルバムは10年ぶり、三枚目。彼女に歌わせたいと願って集められた彼の曲、それにウルグアイとアルゼンチンの曲で統一されていて、この間に築かれた信頼と敬意の絆が前二作より強く感じられる。
ショーロクラブや映画音楽で活躍する沢田穣治だが、このアルバムは筆者が考える沢田音楽の魅力を存分に楽しまさせてくれている。一見複雑に聞こえる沢田作品だが、一度聞いたら忘れられないメロディーを備えているのだ。参加ミュージシャンが魔法にかかったように沢田音楽を構築している。
互恵と共感、そして孤独な -coexistence- 共在によって生まれた音楽を、ジャズは待っていた。
アンサンブルで演奏するよりソロ多重録音のほうが、このミュージシャンの資質を良く映し出していると感じる。
カンザスシティ出身の気鋭のトランペッター、ハーモン・メハリの新作。イタリアの次代を担うピアニスト、アレッサンドロ・ランゾーニとのデュオ作。
「音楽を突き詰めれば突き詰めるほど、静寂の持つ力の凄さに圧倒されるようになりました」ピアニスト、田中鮎美は語る。そして彼女のトリオは、選び抜かれた最小限の音で、リスナーを焦らし、集中させ、魅了していく。
オスロを拠点に活躍するピアニスト田中鮎美がECM初リーダーアルバムをリリース。三者の音色と響きが美しく、深い沈黙の中から自然が持つ揺らぎやランダムさを伴って音が並んで優しく届く。その瞬間、瞬間に美を見ることができる。
世界中には異形の音楽表現を求めてやまない多数の音楽信奉者が待っている。この”超イケてる”アルバムを聴きながら、この厳格な音楽宣教師が使命を全うする日を待ち望むしかないだろう。
師のヘンリー・グライムスがときに恐竜の足踏みのような轟音をもつ剛の者だとすれば、マーク・ルワンドウスキは柔の者である。きめ細かな和音をもつアディソン・フライのピアノ、目が覚める繊細さと速度をもつクッシュ・アバディのドラムスとともに提示されるサウンドはシンプルでありながら複雑な変化やグラデーションがあり、少なからず陶然とさせられてしまう。
イスラエル生まれのドラマーの新譜。重厚でハードなサウンドに、深い色合いと抒情性が加わり、SF映画音楽を思わせるシンセ音が広がる。ゲイリー・ハズバンドがキーボード奏者としての実力を遺憾なく発揮。
首席指揮者に就任して2年、挾間美帆のオリジナル7曲を収録したアルバムをエディションレコードから世界に向けリリース。バンドの伝統を重視し、先の音楽監督たちのサウンドも振り返りながら、緻密だがメンバーとリスナーが楽しめるウィットに富んだ新たなサウンドを切り拓いた。
大好きなTheo Crokerの新譜が発表された。期待通りのご機嫌なグルーヴと惚れ惚れする彼の音色に加え、新しいアイデア満載だ。また彼のアイデアを実行できるバンドメンバーにも感嘆。通常の楽曲解説とは趣向を変え、インタビューも交えて全曲解説を試みた。
Pat Methenyの新作は、Patが若いミュージシャンと新たなアプローチで新旧曲に取り組む、とても意欲的な作品。本プロジェクト「Side-Eye」の鍵を握るピアニストJames FranciesとPat Methenyの最初の出会いは2016年のことだった…
ピアニスト望月慎一郎が、2019年に来日したチェコのベーシスト ミロスラフ・ヴィトウスを迎え、ミュンヘンから来日していたドラマー福盛進也とともに録音していた音源が、Unknown Silenceレーベルからリリースされた。
台湾のギタリスト・陳穎達(チェン・インダー)、カルテットからトリオへ。サウンドは複層的なものに変貌した。
伝統的な英国の風土と自由で多面的な音楽経験に支えられた4人の“ミュージシャン≒マジシャン”の表現の前では、Free MusicやNon-Idiomatic Improvisationといった鹿爪らしいお題目は忘却の彼方へ消え去ってしまう。
そして私は、英語というフィルターを通す事で、意味と文脈を回避し、海原純子の「声の肌理」だけを味わっていた。
マーク・ジョンソンが初ベースソロアルバムをECMからリリース。ビル・エヴァンス・トリオ当時に、毎晩ソロで演奏された<Nardis>、『Bass Desires』の<Samurai Hee-Haw>から再構築された<Samurai Fly>などを収録。イリアーヌ・イリアスを共同プロデューサーにサンパウロで録音された。
ピアノ+弦楽四重奏による新プロジェクト。2020年末のブルーノート東京で初演された逆境からの希望に向けた組曲と、期間限定SNS配信企画「One Minute Portrait」で生まれた3曲などを収録。2021年10月7日〜8日には、ブルーノート・ニューヨーク主催のコンサートでソニー・ホールでも披露される。
このサウンドの新鮮さはなんなのだろう。21年前の録音なのに…。
前衛だからと言ってしかめっ面をする必要はない。子供でも“実験って面白い!”と楽しめる、それが“トゥビフリ”精神なのだ。
強靭にして互いに異なる4人が共存した、貴重なドキュメントである。金剛督+竹内直『アワー・トライバル・ミュージック』と高木元輝トリオ『LIVE at Airegin』とをつなぐリンクでもある。
強靭さを内に秘めた軽快さ・爽快さ・洒脱さなどを第一義に考えた、旨味の多い好アルバム
人生の明暗、哀楽、生死。ここから目を逸らさない観念が出来上がっているから、海原の歌はスケールが大きいのだ
<Eberhard>は、「水の循環」を想起させるような、そしてライルが永遠の中に生き続けていると感じさせる音楽だった。ライル・ファンには最高の贈り物となった。ありがとう、ライル!
ぎっしりと詰まったLyle Maysの魅力を味わう、至福の13分3秒
“Eberhard” は、Lyle Mays の音世界への新たな一つの窓である。この繊細で奥深い窓を通して、また一つ彼の音楽に触れられること、そして音楽への希望、ひいては音楽と非音楽全てへの希望を感じられることに、心から感謝したい。
ライルのピアノとシンセサイザーの豊潤な響きが部屋いっぱいに広がる。これで充分だった。ライルの最後の筆をこうして聴くことができて感謝の気持ちに溢れている。
気鋭の若手、武本和大と濱田省吾が参加したトリオのセカンドアルバム。井上陽介がトリオを活動の中心と定め、2年間にわたり日本中を共に旅してきた結果、より自由でタイトな音楽になり、クオリティーの高いアルバムが生まれた。
間合いと響きの可能性をこっそりと拡げる悪巧みのようなサウンド。
私は、本アルバムにおいて、ドラムのパワーとビート感の専制としての「魔」を有する<日本のジャズ>が頂点を極めたことを確認した。
しかしリックは64にして無伴奏ソロを完成した。貴方はまだ登り続けるのか。
外山善雄と恵子夫婦率いるデキシーセインツは、今年で46年目を迎える息の長いバンドだ。長さだけではない、彼等の経歴は、日本ジャズ史上最高の輝きを放っている
ここには、ルイ・アームストロングのジャズの担い手として不可欠な自由さ、動的感覚が鮮やかに見て取れる。
しかし、それでもなおブラクストンの諸作品が歴史的に残る理由はと言えば、その非歴史性、ジャズの伝承を超克する故だろう。
サックスの石当あゆみ、ギターのフェデリコ・バルドゥッチ、エレクトロニクスのトレイ・クリーガンのトリオにより、気が遠くなるほど大きな宇宙空間に漂い、その音風景が次第に変わっていくようなおもしろさを実現している。
ピアノとベースのデュオで奏でるコルトレーン…極限まで研ぎ澄まされ、静謐で息を呑む玲瓏な調べとなってこの身に響き渡った。
過去から現在へ、光が射す未来へ、ふたつの自由な魂が旅立つ。2016年5月のアコースティック・ツアーから再構成されたアルバムで、チックの生前に二人が選曲、没後バーニー・カーシュが完成させ、珠玉のピアノ・デュオ・アルバムが生まれた。
これら全て「自宅の超狭い防音室で」録音した巣ごもり、手作りの、多重録音無しの即興演奏である。世界を股にかけて演奏して歩くトランぺッターが、世界の圧力によって軟禁されたとき、其の表現力は圧縮されてかくなる形をとった。
ジャズでもありニュー・エイジ(&アンビエンス)でもあるのだが、それはまさに唯一無二な“一子ミュージック”、心の襞に染み入る秀逸な“越境音楽”なのである。
伊藤ゴローがジョアンとオガーマンの音楽に何を聴いて『アモローゾフィア』をつくったのだろうか。その謎を解くためこれからいく度も聴き返すことになると思う。
ダブリン在住のピアニスト、木村泉によるフィールド・レコーディングとの即興演奏によるコラボレーションというこれまでにない試みによる作品。それぞれのトラックが映画のシークエンスのようで、イマジナティヴな音空間が浮かび上がってくる。
このカルテットは、フォークを入り口に、現代のジャズシーンへするりと流れ込んでいくのが特徴であり、重厚感とフットワークの軽さが共存するのが強みだ。
それぞれが異なる地平に立ちつつも、演奏が進むにつれて表情を変化させて、ダイナミックに響き合ったり、静寂に収斂したりしながら同化と異化を繰り返すプロセスに、ひとつのバンドならではの魂の共感と進化を感じる。
スペインという国から連想する”情熱”、それともまた違う血湧き肉躍る三位一体の演奏にただただ吸い込まれていった。
バークリー音楽大学在学中から活動を継続してきたピアニスト柳原由佳とベーシスト山田吉輝が、COVID-19下でデュオで録音したアルバム。秋冬の光景をイメージした美しいオリジナルの数々と濃密なインタープレイから生まれる鮮やかな色彩と爽やかな空気感が楽しめる。
同地が持つ美点やひっかかりに着目した彼は“秩父前衛派”と名乗り、音楽、映画、写真集、研究文献など、同地を引き金とする様々なアイテムを精力的に世に問うようになる。
このアルバムは、穏やかさと静けさを湛えている。森の木々の間へと広がるような、伸びやかなトランペットとギターの音に幾度となく出会う。過去の何気ない日常を思い起こすような、親しみやすさに満ちている。
ま、そんなリーダー作ワールド構想力を備えた3にんが、ピアノトリオという伝統の束縛フォーマットでお手合わせした、
工藤冬里のピアノを聴きながら記憶の中に浮かび上がる風景は、輪郭のぼやけた幽霊に過ぎないが、自分の歴史の投影だとしたら、それはすなわち幽体離脱体験と言えるだろう。
北海道を拠点に活動する11人編成のビッグバンド「Total Knock Out Orchestra」のファーストアルバム。T.K.O.、すなわち立花泰彦、小山彰太、奥野義典というヴェテランの個性のみならず、中島弘惠、吉田野乃子ら精鋭たちの驚くほどの勢いを体感することができる。
この数年間で登場してきたギタリストの中でも耳目を集めるひとり、ジェシカ・アッカリーによるひさしぶりのソロ作品。それは内省と試行のプロセスを経て、これまでよりも自然な雰囲気をもつものとなった。
流麗、枯淡ともいえる過不足ない音の美にしばし酔った。(中略)日本の無伴奏サックスは「仮名文字の音楽」であると。
ザ・マーヴェルスでの3枚目にして初めてのフル・インスト・アルバムで、あらためてロイドの複雑な音楽の地層を知ることになった。
宮本貴奈のアルバム『Wonderful World』を聴いて感じたことは、構成力も豊かな物語が60分にわたって実に巧妙に編まれていることだ。
1986年から2000年まで活動したグループ・フェダインの貴重な再発2枚。『ファースト』には活動初期の「とにかく演る」という臭気と力が漲っている。『ジョイント』は南正人らとのマッチングによる情マシマシの奇怪な雰囲気が聴きものだ。
このアルバムに描かれているのは間違いなくクリス・ピッツィオコスというひとりの人間の魂と肉体である。現在のピッツィオコスのありのままの音楽を時間をかけて濃縮することにより、彼自身の未来の音楽と人生の在り方を刷新した。
〈百万本のバラ〉の作曲者としても知られるラトヴィアのピアニスト、ライモンズ・パウルス率いるトリオと、「ロシアのコルトレーン」と称されるアレクサンデル・ピシュチコフをゲストに迎えたカルテットの秘蔵音源を、ラトヴィアのレーベルからリリース
コロナ禍でライブにも思うように接しられない今日この頃、家でボリュームを上げて楽しむには、最適なアルバムだろう。
全盛期を過ぎた1970年代以降リリースされたハードバップ系の作品で本作以上に『本物』を感じさせる作品は何枚あるだろうか?
この1973年の近藤-土取デュオにまず感じられるのは、「ふたつの個体の全き独立」だ。音量の如何に関わらず、互いを決して邪魔しない。もたれ合わずに、互いが互いを内包してゆく。激しいクラッシュにも、理屈っぽい淀みがない。体感がすべてである。美しい。
え、なんだかんだと牽強付会したところで、つまりはフリージャズだろうって。そうだ、これこそ「真性のフリージャズ、ニュー・シング、新しきもの」だ。
達人ふたりの共演は聴き手にとって饗宴であり、どの料理に注目しようとも、並行世界でまた別の料理が供されている。しかも、いたずらに贅沢でもストイックでもない手仕事のプロセスとして。
なるほど、こうして並べて聴いていると「BGMことはじめ」ともいえるサティと麻紀さんの音楽とはおどろくほどの親和性がある。
大阪の堺市にある“SPinniNG MiLL”という明治後期の紡績工場。その空気感とそこに宿った独特のリバーヴ感が音楽を決定づけている。
Hanina Podladowska の手によるその美しいアートワークを100%斟酌しており、まさにそれにふさわしい音が三人によって紡ぎ出されている。
40年以上の長きに亘り音楽とアートの最前衛で活動し続ける3人が若き日に繰り広げた逸脱表現は、過去(70年代)から断絶し、新時代(80年代)の前衛音楽の到来を告げる予兆である。その意味で『歓喜の逆火』とは言いえて妙である。
ヨーロッパでは文学の朗読が盛んにおこなわれるが、言葉と音との境界、その現在進行形の侵食関係がよく顕われている。どう表現するかではなく、表現したいことは何なのか。その核がブレないからこその、表現形態の無限の拡がりである。/ There is a long-time tradition of recitation in Europe. This album is an embodiment of boundless relationship between words and music, its ongoing mutual erosive state at the front. What matters is not “how to express”, but “what is expressed”; any variant of forms presupposes the existence of its core.
クリス・ヴィーゼンダンガーのピアノ演奏は指先にも思索のフィルターがはりめぐらされており、凡庸からかけ離れていながら乱暴さのまったくない音に驚かされる。ヴァルネラブルであっても隠そうとせず、それによる豊かなグラデーション、共演者や周辺世界との相互浸透を、大きな個の力として確立しているかみむら泰一のサックスとの例外的なデュオ。
チャック・ジョンソンのペダル・スチール・ギターが描き出すサウンドは、蜃気楼のように浮かび上がる遠い記憶を掴もうとする夢の世界のサウンドトラックである。
個人的なハイライトは、ディーン作〈Baker’s Treat〉における、晩年のアート・ペッパーを思わせる、魂を削り取られるような吹奏のサックスソロだ。
そう、ここでその3人(プラス吉田氏)が集い、そこに至る道とその後の活躍の一つの経過点として合焦した、とても素敵なドキュメント
彼女のファースト・アルバムを聴いて感じたのは、ジャズ・シンガーの特権である開放性を存分に享受しているということだ。
従来のLP、CDを長く聴き馴染んできた人たちがオリジナル・アートワークとリマスタリングの「新バージョン」に心を動かされない訳がない。
1970年ごろの東ドイツに、どれほど米国のジャズ、ロック、ソウルが浸透していたかを伝えるライブ盤2枚組である。
リトアニアのサックス奏者リューダス・モツクーナスが2018年末に来日し、Bitches Brew(横浜市)において4日間連続のライヴを行ったときの記録である。迎える音楽家たちは「日本の最強インプロヴァイザー軍団」との宣伝文句に恥じない面々だった。
二人の即興サックス奏者による、古代の記憶と共に眠れる精霊を呼び覚ますかのようなデュオ演奏は、音楽の原初の形を取り戻す試みに違いないのである。
自らの原点であるロフト・ジャズ時代の音源を掘り起こして世に問う意図は、経済的な見返りを求めることなく、自分たちが望む音楽を一途に追求した希望に満ちた日々を今こそ取り戻そう、という決意表明なのかもしれない。
スウェーデンの教会における大きな響きを友としたピアノソロ演奏。即興演奏だからといって構えることはない。結果としての物語性があり、各章での語りがとても素敵な音楽だ。
こうして残されたアルバムで後50年、100年と聴き続けられるのだ。兎にも角にもCD化実現に感謝!
この全編1ミリも途絶えることない胸を締め付けるバラッドの瞬間たち、メロディとフレーズそのものじゃないか、天国のプーさんよ、すげえよ、これ、
しかし、(高柳が)井野や菊地と過ごす時間は、もはや直接行動あるのみという覚悟を裡に秘め、陰腹を切ってステージに上がり、さあ丁々発止の即興妙技をお聞かせしようというほどの和やかささえ感じる。
ベイリーと高木の相性の良さを存分に味わうことのできる作品。80年代の高木のソプラノをじっくりと聴けるという意味でも、他に類を見ない、非常に貴重な記録と言えるだろう。
メディテーション・ミュージック的であり、環境音楽/アンビエント・ミュージック的であり、フィールド・レコーディング的であるが、本質的には生楽器の即興演奏のドキュメントである。いわば一人の演奏家の意思による“Improvised Meditation Music(即興瞑想音楽)”と呼ぶのが相応しい。
HTK Trioは福岡を中心に活動を行う武井庸郎、波多江崇行、コーチK(河内和彦)によるトリオである。本盤は、コロナ禍を奇貨として、閉塞感からエネルギーを生みだそうとした録音であるという。たしかにそのエネルギーは演奏中に漲っている。
伝説のビート詩人ルース・ワイスの遍歴と思想を綴ったポエトリーが、ロムスたちのインプロヴィゼーションと見事に絡み合い、二つの異なる視点からアメリカのカウンターカルチャーの歴史を俯瞰する壮大なオーラル・ストーリーが描かれている。
悠々とリラックスして嫋(たお)やかにペットを響かせる、余裕ある大人メハリといった趣きで、聴くものを魅せる。
このアルバムに一貫して流れる音楽家、藤井郷子の、普段ほとんど表に出ない美意識がごく自然に顔を出しているところが実に興味深い。
ペレルマンも、マルツァンとのデュオでは、かなり微分音を意識して演奏している。が、ジョー・マネリの軟体動物、蠕動の如きフレージングではなく、やはり彼らしい勢いのある水流が迸る。
「息のかさなり」の繊細さが、大胆に、遊び心とともに伝わってくる。器楽的なアンサンブル感覚よりも、ここちよい社交空間で信頼する友人とやさしく話しているナチュラルな感覚。
本作に通底する言葉にできないほどヘヴィなメッセージには、マイナスをプラスに転化しようとする意志と希望が込められている。世界にどんなことが起ころうと、ヒカシューがやるべきことはただ一つ、鳴り止まない音楽を奏で続けることだけなのだから。
意識の塊のようなドットエスの二人の演奏に、”たまたま落ちていた音。たまたまそこにあった音”を重ねることで、疑似アンビエント空間に放り込み、デュシャンの「泉」のように聴き手の価値観の攪乱を意図したのである
抽象と具象、無意識と有意識、無為と有為、Catastrophe(崩壊)とCreation(創造)。ジャクソン・ポロックが導くドットエスの表現行為はまさしく「アクション・インプロヴァイジング・ミュージック(行為としての即興音楽)」と呼ぶのが相応しい。
ポップスの世界では、一人きりの寝室で宅録によって作った音楽を「ベッドルーム・ポップ」と呼ぶが、『CHAT ME』はいわば「ベッドルーム・インプロヴィゼーション」と呼べるだろう。
『アナザー・ストーリー』の物語性はタフでストレート。語りくちはおだやかに聴こえても挑発的な緊張感を内に秘めた音楽なのだ、とあらためて気づく。
この『コンプリート・セッションズ1994』は文字通りジャズ史における「世界遺産」に認定をされて然るべきだとまで、私は考えている。
つつましくも往年の意欲的な演奏を聴く者の瞼に描かせる演奏には、いささか突拍子もない言い方になって恐縮だが素直に” 参りました”と軍門に下るしかあるまい。
ニューオリンズ、スウィング、ビバップ、フリージャズ、R&B/ゴスペルからエキゾチカ、サイケデリック、スペースロック、電子音楽まで地上のあらゆる音楽を坩堝化したサウンドは、世界文明を攪拌・濃縮したミックスジュースのように馨しい。
旅と開かれた共演とを前提とした即興演奏グループ。底知れない遊びの感覚もばら撒かれており、とても魅力的だ。
「ライヴができないなら動画配信」が主流になってきた昨今、日本の一都市・川崎の片隅で、極めてアナログな流通形態にこだわりながら日々発信し続けた近藤等則のミュージシャン魂と矜持、その無窮(むきゅう)の音世界は、かけがえのないギフトとして今こそ深く心に刻まれるべきだ
現代ジャス界の求道者:デイヴ...。おいちゃんのなかではもう「あのかた」を遥かに超えた存在である。
一音一音共演者に投げかけるべき言葉を吟味して奏でるその淡々、飄々とした芸風は他のどのトランペット奏者とも異なる唯一無比の格別の味わいがある。
左チャンネルのハンアル、右チャンネルのディドコフスキーの2つのギター・ノイズと、中央に立つシコラの対照的にメロディアスなサックスが脳内で衝突・融合し、神経を活性化して脳全体を刺激する快感を与えてくれる。
絶えざるグルーヴが身体を揺さぶり続けるが一向に疲れない。むしろ響きの渦へと没入してゆく覚醒感が静謐さを生むほど。/ Incessant groove keeps swaying our body, but it never makes us fatigued. Rather, a sense of awakening toward the core of the sonic vortex invokes stillness.
気鋭のギタリスト浅利史花のファーストアルバム。レジェンド中牟礼貞則から同世代のミュ−ジシャンまで多様なセッションを行い、自らのサウンドを心地よく探究し拡張していく。
ECMからデビューしミュンヘンを拠点に活躍するドラマー福盛進也が設立した新レーベルnagaluの1枚目となる2枚組アルバム。藤本一馬、林正樹、佐藤浩一をはじめ個性的なアーティストが集結し、新しい物語が動き始めた。
2016年7月のヨーロッパ5都市ツアーから、初日ブダペストのベラ・バルトーク国立コンサート・ホールでのライヴをリリース。2017年、活動休止前カーネギーホールの半年前の記録となる。
またピーター・エヴァンスが異色作を発表した。変わった編成のカルテットであり、特にトランペットとヴァイオリンとの共存のヴァリエーションは刮目にあたいする。
自然体のフリースタイルミュージシャン、中尾勘二が生み出す郷愁のアンサンブルが心の自由度を果てしなく広げてくれる。ふと気が付くといつもそこにある風景のような和風フォルクローレ(民俗音楽)である。
NYを活動の基盤としている日本人の音楽家が多いなかで、彼女の音楽だけからはNY的類型から離れた空気が流れてくるのはなぜだろう。
数多ある欧州新感覚派・近未来派ピアノトリオの中でも他とは確実にぶっ飛び、かけ離れたところを遠慮など全くなく疾走していくこの若き3人。
ワレリアンのプレイは雪舟の日本画のみごとな筆遣いを彷彿とさせる。そこには俳句のような語り口があり、謎めいた魅力がある(ウィリアム・パーカー)
アルメニア出身の鬼才ピアニスト、ティグラン・ハマシアンが自身の夢のような内面世界を探求する旅へ向かう。
この作品、NYの進取性・先鋭性にラテン・ジャズの熱気をプラスさせた、と言うよりも塗したと言う表現の方が適切な趣きの、コンテンポラリー・ジャズ作品とも言えそうだ。
相変わらず3人の結束は堅固なものである。玲瓏な調べにベース、ドラムが次々とこれでもかとビシバシと決めてくる。これを演られるとおいちゃんはイチコロとなる。
Covid-19という災厄のおかげで再認識された<自然>との共生、つまり「ウィズ・ネイチャー」こそ、我々人類が本気で取り組むべき課題に違いない。No Touguesの疑似民俗音楽は、自然と人類の芸術的コラボレーションの新たな形を予感させてくれる。
時間の魔術師ラス・ロッシングが、良寛と道元の歌をもとに新しい音世界を作り上げた。異色作にして注目作。
まさに聴くたびに感嘆させられるマリア・シュナイダーの書法と、世界を代表する演奏者を集めて記録したオーケストラ・アルバムではあった。
たった3曲だが、何と変化に富んだ演奏か。迷路のような暗がりを通って明るい表通りへ。そのつど心が踊る。
阿部のソロは、やはりジャズのスタンダードを、そして日本の歌謡曲や古い歌をモチーフにして展開した。その意味では全くテーマの無いフリー・インプロヴィゼーションであるより、フリージャズの伝統に根ざしていると言っても良い。
しかしむしろこれはジャズ的な問題を一切排したところに成立した日本、アメリカ、マレーシアのハイブリッドな音楽であり、そのテーマは、まさに「変化して行く未来」に期待するべきだろう。
池長一美と浅川太平のユニットによる、北欧、北海道など「北」へのオマージュを具現化する新プロジェクトのファーストアルバム。
ブラジルやオリジナルを取り上げた珠玉のデュオ集。圧倒的な音楽が静かにそこにある。
ジャケットに記された「Speak in tongues and hope for the gift of interpretation(異言を語り、解釈の才能に期待する)」という一文には、影響を受けた偉大な先達へのリスペクトと共に、必ず彼らを乗り越えてやる、というピッツィオコスの強い決意が込められている。
あらゆる声による表現を駆使し千変万化するサインホのヴォイス に、循環奏法とマルチフォニックスを駆使しつつも、ブルージーな楽音や尺八も交えるローゼンバーグ、そこにDieb 13がノイズやサウンドをレイヤーのように重ねることで、音宇宙が広がったといえる。このステージで繰り広げられたのは音による即興無言劇とも言えるかもしれない。
このアルバム紹介シリーズでは、中欧と呼ばれる4か国、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランドのジャズ・プレイヤーのアルバムを取り上げます。
自分が歩んできた道の記憶を一つ一つ慌てずにしっかりと確かめながらピアノに向かい奏であげるその美しい旋律に2人が寄り添い、三者で透明感あふれる極上の音色を紡ぎ上げた。
マキガミサンタチのイマジネーション豊かな音楽は、聴き手の音楽脳(右脳)をやさしくマッサージする。その一方で楽曲タイトルのシュールな言葉遊びが、言語脳(左脳)のシナプスを震わせる。左右の脳のバイブレーションが共鳴して生まれる刺激の波が、聴き手の感情に新たなさざ波を起こす。
井上陽介トリオで活躍し、小曽根真公演で”Rising Star”として紹介された24歳のピアニスト武本和大のファーストEPアルバム。佐藤潤一、北井誉人とのKKJトリオ、田谷紘夢とのピアノデュオ、ピアノソロが収録されている。
高円寺百景のキーボード奏者としても活躍する矢吹卓が、自らのプロジェクトとして世界中から30名以上の手だれを集め、梁山泊さながらの世界を作った。実に華麗、壮麗、絢爛である。
電子音楽、プログレッシヴ・ロック、テクノ、ノイズ、インダストリアル、ミニマル・ミュージックなど、様々な要素がミックスされたスタイルは、まさにミクストメディア時代の<アートロック>と呼べるだろう。MEDIA=コミュニケーション・メディアと解釈すれば、JOBSの音楽はアート(芸術)であると同時にエンターテインメントでもある。
あたたかな包容力に満ちながら、甘さを回避する研ぎ澄まされた感性の総和。一時的にせよローカリズムへ逆行することが不可避な現況のなか、まぎれもなくグローバリズムの果てにある「都市の音楽」なのである。/ Their music is full of generosity and the sum of finely honed sensibility without falling into any excessive sentimentality. In today’s world circumstance, in which returning to localism is becoming unavoidable tendency even if temporary, their music embodies glaringly “urban music” which is in the shadow of globalism.
フルートという不思議な楽器を通じて、カエターノ・ヴェローゾ、エルメート・パスコアール、ジョアン・ドナート、そしてオリジナルと、ブラジル音楽への愛情が息遣いとともに愉しく伝わってくる。
還暦を迎えた早坂紗知と、山下洋輔、森山威男のベテランらしい知的なプレイぶりから生まれる和気藹々とした交歓を堪能したライヴならではの1作
私の成長の証し、大きな音楽の分岐点…。神のような存在の、ラリー・ハーローのプロデュースなんて夢みたい。まるで小説の中にいる感じです
今回の新作は “ブラジルの声(&心)”とも呼ばれる、彼の地の国民的英雄ミルトン・ナシメント集。
英国ロンドンのマッシモ・マギー(リード)、ドイツ・カッセルのヨシュア・ヴァイツェル(三味線、ギター)、豪州ブリズベンのティム・グリーン(ドラムス)が組んだライヴ録音。1990年前後に生まれた世代による即興シーンの厚みを示すサウンドだ。
ジェフ・コスグローヴが敬愛するポール・モチアンに続いて取り上げるウィリアム・パーカー作品集。
ピアノの藤井郷子とヴァイブの齊藤易子との異色のデュオ。本盤を聴くことは、音や意識の境界領域に身を置く追体験をするということである。
80歳を迎えるスティーヴ・スワロウ・ソングブックをスティーヴ自身が参加したトリオで録音した待望のアルバム。
ジョー・ロヴァーノのECM作品を聴くとそのたびに「こんなをロヴァーノを聴くのは初めてだ」と思う。ヴァシレフスキ以上にECM以前、以後で音楽自体がはっきりと変化しているからだ。
J-Popの体裁をとっているようでいて、ほんとうは不可思議な音楽だ。きこえてくるのはまるで外国の少女が書いたシュールな日本語のようなうた。
敢えてベースやパーカッション類など一切 使わず、シンプルに2本のフルートとピアノだけで組まれている事でホンシュクと城戸、それぞれ の技量の高さと限りないフレキシビリティが際立つ。
かねてよりドローン・ミュージックは究極のストイシズムだと感じていたが、ザ・ドーフによるエネルギーあふれる解釈により、究極のハードコアでもあることを実感した。単なるジャンルの越境や融合に留まらず、音楽の本質を露わにするザ・ドーフの思索的諧謔精神が今後世界にどんな影響を与えるのか、興味は尽きない。
加藤崇之とさがゆきのSYNAPSE。きわめて幅広い音楽性を持つ2人のユニットの最新作は、驚くほどにストレートなボサノヴァ集だ。
コーリー・スマイスがまた刮目すべき作品を発表した。緻密かつ自由な5人のヴォイス・アンサンブルと即興を展開するとともに、自身は鍵盤とエレクトロニクスで演奏に参加している。大きな広がりも有機的な重層性もあり、全体として意思を持つようなサウンドである。
アルトサックスの柳川芳命が、かれと同様に東海地方を中心とした音楽活動を展開している5人のギタリストとのデュオ演奏を行った記録。それぞれの個性とともに、柳川のアルトがギターの違いを受けて呼応するありようにも注目すべきだ。
この音楽は、その地の精霊とフリージャズのホーリーゴースト(聖霊)が共に歌い上げる声なのだ。東南アジアだからこそ生まれた新生フリージャズに栄えあれ!
この新作が藤本夫妻の、まさに夫唱婦随の画期的な新作であり、昭子さんにとっても会心以上の1作であることを私は疑わない。
魅力の焦点は何と言っても、フランソワ(キャリリール)のフリージャズ風フレージングと纐纈雅代のリアル・フリージャズのフレージングを対決させたアイディアにある。
既存のカテゴリーに当てはまらない<パーカッショニスト>の高音質ソロアルバム。聴いていると、音への意識のヴェクトルがいつの間にか逆になって、音のほうが自分を視ているような錯覚を抱く。
キカンジュ・バクが創造する訳のわからなさ・混沌・曖昧性は、地下音楽の醍醐味のひとつであり、ケイオティックで挑発的な音楽スタイルと共に、好奇心が刺激されて止まない。
三人のミュージシャンが、密閉されたスタジオで、体を寄せ合い密集して、濃厚かつ密接な音の交感により生み出した生々しいブルース魂が宿った音楽ドキュメンタリーである。
ガトー・リブレはひとつひとつの楽器の音が尊重され際立つユニークなグループである。シンプルにして豊饒、淡々としながらも変貌を続ける音世界。
ここには本家の極上のスイング感は全くない。その代わりにヨーロッパジャズが持つ独自の静謐さの中に育まれる極上のノリがある。
土台にあるのはジャズのようだが、様々なジャンルのギター奏法をマスターしていることがわかる。
音量と音質がイーヴン。生楽器の身体性が成功裡に飛躍する。
『Manala』が奏でる豊穣の音楽は、ロムスとコスキネンの個人的なルーツであるだけでなく、遍く人類すべてが生まれてきた原初的記憶をたどる旅路を示している。それこそが音楽の冥界巡りの醍醐味と言えるであろう。
ハーブ・ロバートソン、デイヴ・バルーというふたりの対照的なトランぺッターは、トム・レイニーの叩き落とすがごときドラミングによるリズム、ドリュー・グレスのベースが創るプラトーの上で遊泳する。
抒情的な言葉を後付けで述べるのは簡単だが、それを拒む。柔和だがなかなか強靭な自律性。
エリック・ミヤシロ編曲によるビッグバンドを従えた、2019年12月大阪でのコンサートを収録。
青山ボディ&ソウルで活動して来たスーパートリオ。新曲の魅力、音色の繊細さと多彩さ、それを浮かび上がらせる録音が素晴らしい。
アメリカーナ=ブルースの要素を加える事で、より広範な音楽ジャンルと演奏スピリットを注入し、逼塞した今の時代を生き抜こうとする強い決意を表明した意欲作となった。
ときには異様に張り詰めた空気に包まれ、怒涛のようなインプロヴィゼーションが展開する一面もあるが、オルゴールの音や、つぶやくような歌に彩られ、詩情豊かなアルバム
もう一度心理的深淵の周縁、「終着の浜辺」に打ち寄せる、誰も知らない郷愁を誘うレクイエムに聴こえてくる。
このアルバムは、コンポジションの中に個性的なプレイヤーの出番を与えるという一方向のものだけではない。各プレイヤーの音色を前提とした曲作りを行い、多くの異なる声からなるざわめきに形を与えているという点で、きわめて独創的であるように思える。
警鐘となりえる芸術は、今どれほどあるのだろう。相も変わらず、商業主義の上に乗った現状を照らしただけの、描写的なものが幅を利かせているのではないか。近藤等則の音楽は、いつも根治的で潔い。直に病巣に斬り込む。何が急務なのかは、今の地球の悲鳴を聴けば明らかだろう。
テクノロジーのうえに成り立つ音楽であるのに、到達している境地は柔和で清澄。すっと心に浸透する音色が何より魅力的だ。そこには、さまざまな相剋を超越した後に訪れる虚無や、どこか東洋的な音韻もたゆたう。
さて、そんな些末な事はさておき「圧倒的」という言葉を、いざ使うのはこんな音楽に接した時だろうか。
「存在と生成」というタイトルの通り、多くの者に共有されるジャズ的な音要素を使ったサウンドから、よりシンプルで強靭な音要素をいちから使ったサウンドへの変貌。ジョエル・ロスら若い才能の突出にも注目すべき作品である。
エヴァンとリットンがロンドンで1969年に邂逅して半世紀、シカゴで2019年に録音されたのが今回リリースされたアルバムだ。
音色の連続的な変化をひたすらに追求するトランぺッターのジョー・モフェットがチューバのダン・ペック、パーカッションのカルロ・コスタとともに組んだトリオ。そのサウンドは楽器を演奏する個人の音の足し算にとどまらない。聴く者の内奥空間と現世とをつなぐ橋が現れ、音の断片がそのつど聴く者に個人的なものを幻視させる。
だから定型リズムでソロアルバムを創るというのは相当にユニークだ。
今回はオーケストラのアレンジが、ポップさといいますか「聴きやすさ」に大きく貢献しているように感じました。
有言実行、新・標題主義を掲げるレント・ロムスと辺境君主の信念に貫かれた異端音楽が、いつか山の下を貫通し、モンスターとなって地上に出現する日が来ることを心待ちにしている。
アンビエント/環境音楽ブームのおかげで、平野の音楽にも関心が集まっていると聞く。どのような形でも構わない。謎多き日本地下音楽の闇に薄暮の光を放つ秘宝がより多くの人たちの耳に届くことが、何よりも重要なことである。
この音の決して鈍らない強度、そして延々持続する意志の燃焼。これは他でもないサム・リヴァースという「妥協しなかった男」「最後の硬派」の、今我々が接し得る全てではないのか
エヴァンのサウンドは30年前に比較すれば、油のよく乗った歯車がゆっくりと回転しているような、滑らかな時計のメカニズムを感じさせるのであった。
サブ(豊住芳三郎)とカントリーマンは、フィリピンで「ジャズの十月革命」を起こすだろうか。
クリス・ピッツィオコスが作曲したスコアを基にした演奏である。ジャズ的な即興イディオムは殆どなく、クラシック音楽に於ける即興曲に似たコンセプチュアルなノンイディオマティック演奏が収められている。
札幌ジャズアンビシャスに、北海道に住むことになったマシューズにもすでに「地の霊」は降臨していて新しい音楽が確実に芽生え始めたようだ。
ジャズのメインストリームを半世紀以上にわたって走り続けてきた男が世代の架け橋になるというミッションに燃えた。
文は人なりというが、音もまた人なり。岡まゆみ、Kishiko、海原純子3人のアルバムを聴いてさらにそのことを強く思った。
近くて遠いジャズとロックのミッシング・リンクとして謎解きを楽しむのも悪くはない。しかしながら、アルバム全体に漲る無防備なまでの自由精神は、時代や社会やテクノロジーが変化しても常に変わることのない、人間の表現欲求の解放の証に違いない。
この快感、耽溺を肯定する事は危険だ。この音楽に拝跪してはならない。私はこの音楽の強度に立ち向かわなければならない。それが真にこの音楽を聴く事だ。
これからは本当に音楽も”ペーパーレス”になってしまうのだろうか…日々不安でしようがない。
片山広明を愛する立花秀輝が、生前彼に提供した曲「酒屋が閉まる前に」がアルバムタイトルにされている。片山へのレクイエムなのだろうか。
録音・制作自体は40年前だが、2019年の現在初めて明らかにされるニューシング(nu thing)として提示されている。それこそ作品番号に付された「remodel」の所以である。表現行為の記録の再構築により、煤のように堆積した記憶を払い除き、本質的な音楽そのものを新しい耳で体験すること、それがカタログへ向き合い方であろう。
大砲ではなく小銃で穿つように寄せてくる覚醒。三者のあいだに静かに脈打つリスペクト。中核にあるのは、リーダーであるデンソンの、大木がしなうような野太いフィーリングだ。/ An awakening draws near, piercing through like a rifle rather than a cannon. A heartbeat of respect quietly pulses between the three. At the core is leader Denson’s deep feeling, like the swaying of a great tree.
ただ、そのローカリティの底を突き抜けて、グローバルというべきか、ヒトという構造の、精神という機能の共有領域まで連れて行ってくれる「こえ」なのだ。
台湾のギタリスト・陳穎達によるカルテット作品第三弾、コンセプトはロード・ミュージック。このような良作が架け橋となって、日本と台湾の実力あるミュージシャンの交流がさらに進むことを望む。
「Sound of the Mountain」のサウンドをはじめて聴いたときから幻視していたのはマックス・エルンストのフロッタージュだが、それは故なきことではない。上下と前後左右の運動、それによる摩擦と突破、予想できない事件。極めて独自性の高いサウンドである。
(コメダの作品が)文字通り新たな名曲、名演となって再構築されていく様は聴いていて快感以外の何物でもない。
もし比較してみるなら、ボーカルの代わりにサックスがいると言ってもいいだろう。私はプラスティック・ドッグズをメタルバンドとして認識してしまいそうだ。
音程の確かさといい、豊かな音楽的センスといい、おそらく彼は生涯に初の、ベース・ソロアルバムの秀作を吹き込んだといって間違いない。
とにかく3者の演奏にはどこにもごまかしがない。ある意味ではすこぶる健康的なピアノ・トリオゆえの快感に酔わされた。
歯切れの良さは相変わらずだが、リズムを解いてプレイした粋な遊び心、等々。絶好調のひろみ節を満喫した。
インディーズ・レーベルから出たゆるいネオアコバンドのようなジャケットであるが降りかぶってくる音はまさに現在進行形ジャスピアノトリオ
35年経ってスタンダーズ・キース・ジャレットをバッサリ斬ってしまう録音を日本の自主レーベルが成し遂げている、紛れもない傑作に立ち会っている、
低音弦楽器のデュオだけでも十分なところに、敢えて早川の渋い歌声が、ブルーズのような、
知る人ぞ知るカルト・ミュージシャン及川禅による80年代地下音楽の秘宝が、何の前触れもなくイタリアのOttagono Design Of Music(オッターゴノ 音楽のデザイン)と称するレーベルからアナログLPとしてリリースされた。
安らかな心地で聴くことができることは、その刻その刻の音空間を得て柔軟に次の音を繰り出してゆくジャズのスリリングさとは相反しない。一音一音に集中して聴き、音の流れ自体に憑依するならば、高田と安ヵ川のその場限りでの振る舞いを追体験できるだろう。
国内外のインプロシーンにおけるヴォイス・パフォーマーは少なくはない。だが、これほどまでに多彩なヴォイスを提示できる者はそうはいないに違いない。それは自身の体躯との対話を突き詰めて得られた世界である。
不定形の音楽ユニットであるテニスコーツの新作は、ベーシスト立花泰彦とのジャズスタンダード集。「ジャズとは何でしょう(What Is This Thing Called Jazz ?)」との問いに、あなたはどう答えるだろうか。
繊細さがスケールの大きさを拒まないのが三枝節の真骨頂。瑞々しさと完成度の高さで、花果同時の高貴さもまとう。
垣根のない音楽。「聴く」という構えをほどく音楽—そのような音を前に、音楽のカテゴリーは不問だろう。
即興演奏の奥義を極めようとするかのような中村のチャレンジ精神とその楽しさと生きがいを聴くものに伝えようとする若さを失わない演奏に脱帽した新作。
ピッツィオコスたちが、享楽的なコールマンや、エモすぎるアイラーや、理知に支配されたブラクストンよりも、神秘的なコルトレーンの世界に無意識のうちに近づいていることを意味している。
新世代ギタリストのジェシカ・アッカリーが満を持して出した新作は、これまでより躊躇なく独自のリズムを作り出しており、奇妙に構造的なものにもなった。サックスのサラ・マニングの変貌も含めて要注目。
「採集した音」とピアノがどのように共和できているか。まだ少し心もとないのだけれど、聴くたびに音の隅々から「土地の地霊」が頭をもたげるのがはっきり聞こえる。
大きな達成感を持ったミュージシャンだけが発揮できる理想郷のようなプレイの連続だ。
しかしはやり「鎌鼬」(かまいたち)だ。あの写真集の迫力に<騒乱武士>はどこまで迫れたのか。
温故知新などと言う前に、今、この二枚を聴け。いや、そんじょそこらの「なんちゃってフリー」ではない。二十世紀後半の波濤をかいくぐり、さらに自らの船を繰り出す2人の船長の声を。
激して震える声、耐えしのんで絞り出す声、むせび泣き、嗚咽、絶望の吐露、裏返しの喜悦。ベタとも思える歌謡と民謡の通俗的音世界が、カバーを超えてこのようにまで昇華され、一周して再び情念の世界に戻ってきている。とても面白いことではないか。
「ジャズ」スタイルの可能性・汎用性をとことん探索し、「ジャズ」で遊ぶ喜びを十二分に謳歌する三人は、前衛のための前衛や、破壊のための破壊とは次元の異なる音楽エンタテインメントの実践者に違いない。
エヴァンはこのアルバムを深夜に、小さく再生し、睡眠中に聴くよう促している。残念ながらこのライヴ録音時の聴衆は謹聴し続けていたようであるが。少なくとも鼾は聞こえない。
あの良き・熱き時代のジャズ~ストレート・アヘッドなジャズの “今”を、“圧倒的な熱量” を伴い活写した仲々の力作
どの曲にも「え、これを選んだの」と驚き、そして「こんなに良い曲だったのだ」と思わず微笑んで聴き返してしまう。
いずれ、受精後40年、大抵の事は演奏自体で出来る自信があると自負するバンドに成長したヒカシューは、極めて正気の沙汰のまま変態を達成した。
山田光と黒澤勇人。ギターとサックスのデュオによる自由即興が、様々な「振動」の形を提示する。
ここに記録された作品は、溢れ出る才能の結晶であり、例え極少数だとしても形にして世に送りだしたDD.Recordsの功績を含め、日本の地下音楽の秘宝として高く評価されるべきである。
秀逸なポップセンスを持つサイケデリック・ロッカーでもある春日井の歌心が多分に盛り込まれた本作は、ノイズ/実験音楽/アヴァンギャルド/電子雑音の範疇に収まらない多面的な自意識(自慰式)解放の極みである。
グラスパーほどのちからはまだないにせよ、確実に新しいジャズを創造していくシオ・クローカーの待望の新譜が発表された。期待通りの傑作で書くべきことは山ほどあるが、今回は趣向を変え、作家村上春樹氏を引き合いに出させて頂いて、ジャズの流れにも触れてみた。ついでにアーウィン・ホールの爆発的アルトソロも採譜して解説。
特定のスタイルを標榜する訳ではないが、この潔さは即興音楽スリーピースの極意と言えるに違いない。パーマネントなトリオではないことを重々承知の上で言わせてもらえば、Improvised Music最上のトライアングルである。
齋藤徹は、再び、ことばを中心に据えたプロジェクトを形作った。それは音楽だけではない。同時代の詩人たちが詩を持ち寄り(齋藤の幼馴染であった渡辺洋は故人ゆえ、齋藤が渡辺の詩を選んだ)、松本泰子が歌い、庄﨑隆志が踊る。また詩人たちも朗読などによってテキストだけではないかかわりを持つ。
私はこの作品集を聴いていつしかまるで現代にシューマンかグリーグが蘇ってきたような錯覚すら覚えた。
ドラムレスだが鈴木の懐の深いベースがバンド全体に安定感をもたらし、ベテラン揃いの演奏にヒューマンな香りさえ漂わせる。
マーシャル・アレンたちの宇宙規模の自由な音楽が、たった30センチのレコード盤をターンテーブルに乗せるささやかな儀式を通じて我々の現実世界と繋がる。これこそ真の癒しであり祝福である。
レパートリーへの理解と解釈が驚異的に深化し、まさに彼らにとってのスタンダード・ナンバーとなっている。あまりに堂々とした演奏は本家ZEPにも負けない王道の風格がある。
普通のソロピアノではない。ピアノ全体が鳴り響いていることに、あらためて驚かされる。鍵盤を叩き、内部の弦をさまざまなやり方で鳴らし、それがピアノというひとつの楽器をしてオーケストラルなサウンド発生器たらしめている。
トランペットの可能性を押し広げるアクセル・ドゥナーと、ノー・インプット・ミキシングボード奏者・中村としまるのデュオ2作目。前作と併せて聴くことを強く勧めたい傑作。
カンサス・ジャズのボス的存在で、ブルース&ジャズ・ピアニストにしてボーカリスト、作曲・編曲者でもあった、ジャズ界の巨星のジェイ・マクシャンが1990来日した折り、東京のジャズ・クラブで収録された貴重なライブ音源。
貴方が聴くのは、フレッド・フリスが十年かけて作曲し、自ら指揮した三楽章からなる3時間半の即興的狂詩曲
ひとつの大きな世界観を共有することを志向しているが、特殊奏法を駆使して互いのサウンドの近似値を図るものでもなければ、「うた」のアルバムでもない。絵画に色彩ありきのように、言葉に意味ありき、音楽に音色ありき—その原点に忠実だ。
川島誠のサックスから発せられる音色には、聴き手の記憶の底のノスタルジアを呼び覚まし、現世の葛藤や欲動を音楽に昇華させる魔法の欠片が溶けこんでいる。ここから始まる音楽人生に偽りはない。
60-70年代の映画、市民権運動、幻視的な詩、SF、コミックなどからインスパイアされた即興ラージアンサンブル。コントラバスふたりによる擾乱と浮力、その上空を浮遊するようなヴァイブと4管のうねりが、限りなく拡がる夢を描き出している。
鋭角の音と層の音、緊張と快楽。聴く者を幻惑するルォー・ユー・チェンのピアノトリオは、第4作になり、濃淡の人マーク・ターナーを迎え、さらなる化学変化を引き起こした。
“ウェストコースト即興シーンの顔役”を離れて自らのルーツであるフィンランド音楽とのプライベートな交流を追求するこのプロジェクトは、レギュラー・グループのLife’s Blood EnsembleやLords of Outlandとは別のレント・ロムスの魅力を伝えてくれる。
川嶋哲郎は、日本人でなければ表現できないジャズ」を目指している存在となりつつある。様々な試みや成果の結晶化、大きな終結点がWATER SONG”だ。
板垣は学生時代に辛島文雄に指導を受けたことがあるということで本アルバムも辛島文雄に捧げられている。
<ノー・エンド>は、ケニー・ドーハムの僚友の一人、テナー・サックスの名手、ジミー・ヒースの自宅から発掘したという貴重な1曲。
シカゴAACMの巨人2人と、即興演奏するコンピュータ・プログラム。異色のトリオによるライブ録音。
サンフランシスコの新世代アルトサックス奏者による、先達の影響と同時代的感性が同居した新たな『なしくずしの死』
異形の波動ギターのアーロン・ネイムンワース、サウンドの構造を都度作り上げるピアノのエリック・プラクス、バスドラムによってボディブローを放ち続けるジョン・パニカー、泥の匂いを漂わせ精力的にサウンドを浮揚させるショーン・コンリー。この快楽物質分泌は、まるでブルックリンに瞬間移動するがごときものだ。
突然変異のようでありながらも、薩摩琵琶とトランペットとが衝突し、溶け合い、実に独特な音世界を創出しているアルバムだ。一貫して、与之乃の強い念や気と、発酵にまでいたっている田村夏樹の技が強い印象を残す。
力技ではない。あたかも棋士の対決を見るように、互いの意思を図るべくサックスとドラムは感応する。
人間そのものに肉迫できているか。特定の物語をベースとしながらも、この根源的な問いは独立している。現在のような時代になっても、フリー・フォームが決してなくならない所以でもある。
フリージャズ特有のダイナミズムと緩急自在な表現によって、今日的なアクチュアリティを表出させる「ARASHI」の演奏はフリージャズの今日的な有効性をよく表していると言っていい。
その本田珠也が敬愛していた父本田竹広の偉業を受け継ぎ発展させようとの思いで結成したのが「本田竹広トリビュートバンド」である。
昨2018年10月にTOWER RECORDSが新たに創設したレーベルDay’s of Delightの第2弾として発表されたものである。
リューダスは己自身の中で管楽器の演奏の「進化」と「根源」を同時に見せてくれる。これは音で聴く50分弱の生命史か?
伝統の継承と、驚くほどにパワフルな革新。本盤を聴くと、「テナー・タイタン」の称号はJBLことジェームス・ブランドン・ルイスにこそ与えられるべきではないかと思わせられてしまう。そしてジェイミー・ブランチ。間違いなくかれらの時代である。
シカゴの昇龍デイヴ・レンピスが、タシ・ドルジ&タイラー・デイモンと共に生み出した“雄弁な沈黙”
弦。ひたすら弦の響きに飲み込まれるようにして聴く音楽だ。
一噌幸弘がふたつのセシル・テイラー追悼作を出した。それらは、同じ時代と場所を共有した者として、一噌自身が現在のフリージャズを鮮烈に提示した作品となっている。
MAD-KABは基本的に石渡明廣(g)の曲を石渡の想うように演奏するグループ
「即興とはなにか」という問いへの返答が等しいウェイトで偏在する、11編の対話の記録。
ギタリスト加藤一平のリーダーバンド「鳴らした場合」の1stアルバムは、新鮮な郷愁の満ち溢れる、優しくバグった世界。
ピーター・エヴァンスが、韓国のスンジェ・リー・トリオに客演した旧交温めるセッション
即興ジャズの熱気とも、クラシックの厳格さとも異なる、知的な遊び心に満ちた実験精神は、室内楽的ハードコアジャズとでも呼べばいいだろうか。
サックスとパーカッションで太古の洞窟で演奏する試みは、命をかけた馬鹿げた挑戦などではないが、このレコーディング作品のキーワードが<生命>にあることは確かである。
インテンポでの高速のスイングは “SABU”の大きな魅力の一つでありサックス・トリオの導入部としては正にパーフェクト。
名古屋の異端サックス奏者柳川芳命と大阪のパンク・ドラマー藤田亮。何にも頼らず自分のスタイルを創り上げる無頼派同士の初のデュオ・アルバムには、即興演奏の彼方を目指すエネルギーが溢れている。
フリージャズやマッチョ性といった既存の制度への収斂から逸脱し続けるマイケル・フォスターとベン・ベネットとの注目すべきデュオ、3作目。
堅いトリオは揺るがない。確固たる3人による、確固たる音楽である。だが、これは硬直してしまった古臭い音楽では決してない。
音色に対する常ならぬ追求をみせる、ジョー・モフェットのトランペットソロ作品。
この1作を聴く機会に恵まれて、初めて宮嶋みぎわという名の作曲家を知り、その作品にアプローチする幸運を得たことを改めて感謝したい。
幕開けの「ファシネイティング・リズム」にノックアウトされた。いや、圧倒された余波で思わず ”ブラボー” と叫ばずにはいられないほどの感動の波に襲われた。
欧州のジャズ大国オランダの新進で、ネオ・ハード・バップを身上とするオーセンティックなラッパ吹きだった。
板橋文夫の発想が突飛で奇想天外、思わず聴く方も手に汗を握り我を忘れる。
その彼がカルテットでのライブ。私は山内のフリージャズを初めて聴いたように思う。トラック4が特にそう思えるし、このアルバム内でもベストだ。
一曲目「月食の夜」が圧巻だ。タイトルチューンにしたのも納得する。ベースの紡ぐ網目に管楽器各自の伸びやかな音(と声)が絡まり合い、風通しが良い景色が見える(蓮根だから穴があいている?)。
2006年7月19日ヴェネツィア・フェニーチェ劇場でのピアノソロコンサート。キースは「ヴェネツィア・ビエンナーレ」音楽部門での金獅子賞受賞しており、そのお祝いとキースの健康と長寿を祈るリリースと推測される。アンコールでヨーロピアンカルテットの<Blossom>が演奏されていることにも注目だ。
イタリアのテナーサックス奏者、Edoardo Marraffa による18年ぶりの無伴奏ソロ作品。マルチフォニックを駆使しつつ、荒々しくもナイーヴで、抒情的でありながらも勇壮な音と演奏に円熟を感じる
待望の初来日ツアーを終えたピーター・エヴァンスが、本誌 No. 245 の来日直前インタビューで予告していた新作4枚を、彼の主宰する More is More から同時リリース。本誌でも4作品を同時レビューする。
ブルックリンを拠点に活動するトリオのデビュー作。伝統のトリオ編成に現代的感覚を備えた、個性的かつ印象的な小品集。
エヴァン・パーカー、エリアーヌ・ラディーグ、サルヴァトーレ・シャリーノ、DJマグス、ウィリアム・バシンスキー、アルヴィン・ルシエ……。これらは本作の「謝辞」に掲げられた音楽家の名前である。
今は亡きシュールレアリズム詩人の生前のポエトリー・リーディングと今を生きる前衛ジャズの共演は、ビート・ジェネレーションの血が受け継がれる西海岸の即興シーンの豊潤さの証である。
サックス/ギター/ドラムによる重金属&変拍子&前衛ジャズが、ウェストコースト・アンダーグラウンドの雑食性ハイブリッドの優位性を証明する。
ここでの廣木はこの高柳のコンセプトを継ぐクール派としての面目躍如で、渋谷を相手にクールにスイングし、新鮮である。
今、最も注目すべきイスラエル出身31歳のピアニスト、シャイ・マエストロの待望のECMデビューリーダーアルバム。あふれるアイデアを持つ若き才能がマンフレート・アイヒャーとの出会いで創作の転機を迎えた。
ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラの活動と同時期に吹き込まれた、ピアノ表現の可動域をダイナミックに拡張させたデュオ作品。
19世紀の初めにシェラレオネからキューバ農園に連れてこられた、一人のキューバ黒人奴隷の物語を描いた叙事詩的ジャズ組曲。
アルバムは一言でいえば“キューバン・ガイ(キューバ人)・インNY”といった趣きの作品で、その楽曲のどれもが土の匂いを漂わせながらも都会的(NY的)でもある。
ポスト「メアリー・ハルヴァーソン」、ジャズギターの新星によるデビュー作。ハルヴァーソンとは異なる個性の発展を期待させる。
逸脱を極めれば極めるほど、古典や伝統への親和性が高くなる。異才ギタリスト、パク・ハンアル率いる無名の小惑星の名前を持つトリオの演奏は、まだ誰も提唱していない「特殊逸脱性理論(Special Deviation Theory)」の確立なのかもしれない。
山田唯雄の素晴らしい点は、何と言っても、芯のある美しい音。その美しい音をダイレクトに捉えた録音の良さも特筆すべきだろう。
彼らは何も声高に「これが俺のジャズだ」とは主張しなかった。彼らの存在自体がジャズの現在形だった。彼らはことさらにフリーであることを主張しなかった。
ALM盤とは違った側面を見せる今回のアルバムは、今後ALM盤と対をなすアルバムとして後世の記憶に残って行くのではないだろうか。
NY在住のヴォーカルインプロヴァイザー、コンポーザーの北村京子がリーダーを務めるカルテット「Tidepool Fauna」のデビューアルバム。言葉を排した北村の「声」を起点に、モノクロームの夢境を彷徨うような玄妙な美しさが作品全体を透徹する。
そして、あたかも荒野の向こうから座頭市がのそのそと歩いて来るような、映像を想起させる演奏。いきなり、抜き身を構えた連中が襲って来る。しかし、十秒もかからず、皆倒されてしまう。
一聴、その音楽に驚嘆し、多様式主義だのポストモダンだのと言葉を探したり、ゲーム、アニメの音効を思い出したり、落ち着いた顔で内心慌てている。
Untamedと言うのは、野生の、という意味になる。やはりサファリなどアフリカをイメージした曲なのかも知れないが、『Afrodeezia』に収録されているようなルーツ色は薄く、自然にバックビートでグルーヴする曲、なのだが、初めて聞いた時一体この曲はどうなっているのかわからなかたのだ。そんな曲はこのアルバムを通してこの一曲だけであり、即座に楽曲解説の題材にしたいと思った。
曽根麻央という演奏家がピアニストとして、同時にトランペッターとして、かつ作曲家として、新しい音楽家像を作り上げる期待に胸躍らせる無二の新鋭として登場したことを喜びたい
ウェストコースト・アンダーグラウンドのオリジネーターのひとつロヴァ・サクソフォン・カルテットの40周年記念アルバム。コンポジションにフォーカスし、円熟と野心に満ちた、次の10年への所信表明といえる渾身作。
ロッテ・アンカー、モリイクエ、田村夏樹、そして藤井郷子。あまりにも個性的な音楽家の演奏が、見事な手腕により作曲作品として噛み合って、優れた舞台を観た後のような印象を残す作品。
台湾の雄・謝明諺(シェ・ミンイェン)が、豊住芳三郎、李世揚との即興セッションを行った。極めて自然に汎東アジア的な音の物語を提示してくれるアルバムであり、三者の異なるバックグラウンドや経験を反映してか、サウンドは天地のあちこちをさまよい、そのつかみどころのなさがまた大きな魅力となっている。
ブライアン・キュー、クインシー・メイズ、マーク・バリクによる鮮烈な初リーダー作。曲のひとつひとつが夢、あるいは映画の忘れがたい断片を想起させるように聴こえる。夢の世界を彷徨うようでありながら、音要素の数々は奇妙にリアルに迫るサウンドである。そのギャップが、音楽を開かれたものにしている。
恐らくコルトレーン本人はお蔵入りさせるつもりだったのではないかと思われるレコーディングが発掘された。筆者にとってコルトレーンとは何だったのか、ということに触れながら、先行公開された第一トラックを解説。ビ・バップのフレーズを否定し、4度飛びとペンタトニックなどのフレーズを開発したコルトレーンに焦点を当ててみた。
こうしたピットイン育ちが集ってのこのアルバムからはピットインの音が聴こえてくる。
この不動にして強固な5人の漢達による、ラテン・ジャズ・ユニットとしての抜群の“絆”は今作でも健在、自在にして闊達・洒脱なラテン・ジャズのエッセンスを開陳し、聴くものを心地よく悦楽の世界へと導いてくれる。
メロディのもつ含蓄、演奏者の表現力、時の移ろい、雨や夢などの言葉が放つイメージの連鎖が結ぶ像には、粋とメランコリーがバランスよく結集している/The connotation of the melodies, the musicians’ expressiveness, passage of time, and a chain of images unleashed by such words as rain and dream; in a picture connected by all these elements, stylishness and melancholy are brought together in good balance.
NY即興シーンを代表する二人の音楽家の初デュオ作品は、大胆なスタジオ・ワークを駆使して、即興音楽の先にある異端世界を目指す問題作。
ピーター・エヴァンスとコリー・スマイス、90年前の歴史的デュオへの“返歌”
フリージャズや即興音楽に限定されない活動を貫く二人の個性派アルトサックス奏者、望月治孝と川島誠のスプリットLPがフランスから登場。
個性の方向がそれぞれまったく異なる傑出した3人による成果。楽器間の権力構造や、演奏内での中心と周縁といった構造を排することによって、他にはみられないトリオ演奏の形を提示している。
パトリック・シロイシ、ロサンゼルス在住の日系四世。驚くべき個性を持ち、響きを追究してやまないユニークなサックス奏者である。
来たる6月15日に発売されるロバート・グラスパーのスーパーバンド、R+R=NOWのデビューアルバムから、シングル先行リリースされた1曲を解説。テレース・マーティンやデリック・ホッジなどの個性の強いアーティストたちとの巧みな共同作業や、グラスパーがいかにマイルスなのかに焦点。
そのどれもよく出来た楽曲といっていいが、それ以上にメルドーが何と故エルモ・ホープと故サム・リヴァースの作品を採りあげて演奏したことに感激した。
公演を終えた3人があらためて録音し再構成したのが本アルバムで、芝居と台詞から離れ、または舞台を思い出しながら、オーランドーの旅をアンビエントなサウンドの中で自分が主人公であるかのように辿ることができる。
ジャズはもちろんすべての音楽表現の先の先を追い求めるクリス・ピッツィオコス・ユニットのスピード感に満ちた新作は、世界と音楽の終末観を突き破る銀の弾丸である。
ノー・インプット・ミキシング・ボード奏者フィリップ・ホワイトと即興サックス奏者クリス・ピッツィオコスのデュオ第2弾。ノイズとメロディの二つの音の位相が絡み合い、未開の表現領域に肉薄する鮮烈なドキュメント。
シカゴのライジングスター・ピアニストによる、脳の快楽であると同時に身体に響くライブ集成
オーストラリアの現代音楽演奏家たちによる格調高い「フリージャズ」
アルバム自体の出来は圧倒的にエリングの『The Questions』の方に軍配が上がるが、カート・エリングのヴォーカルに焦点を絞って評価を下せば、ことに新たにエリングのファンとなった方ならブランフォードの『アップワード・スパイラル』にもぜひ耳を傾けていただきたい。
2016年11月、ベルリン・ジャズ祭でのグローブ・ユニティ・オーケストラ50周年記念コンサートのライヴ盤。これは歴史に残る作品である。
しかし、この「オーケストラ・ニューヨーク」の面々に、3.11の向こうに9.11が、そして、チェルノブイリ(86年)やスリーマイル島(79年)もイメージされていたとしてもおかしくはない。
30年の沈黙ののち再び活動を始めた異端の女性シンガー、パティ・ウォーターズが盟友ピアニスト、バートン・グリーン等と繰り広げた最新ライヴ音源。「伝説」と言う過去の亡霊を吹き飛ばす迫真性に満ちている。
ジミー・スミスから続くジャズ・オルガンの本流、源流を辿りながら研鑽を積み現在に至った土田の現時点での成果を堪能した。
北澤のマリンバ、ゴメスのベース、北條などのアレンジ、それぞれが抜群な冴えを示し、この3つの要素が見事に相乗された、“超ジャンル”とも言える魅惑的な“クラシック・ジャズ”の世界。
プリエトのアレンジはアンサンブルとソロとを区分けせず、両要素が対峙し合ったりしながら溶け合っていくプロセスを打ち出してクライマックスを演出している点が実にユニークで、彼の豊かな才能と人間味に惚れぼれさせられた終曲であり、アルバムであった。
最初は仰天するほど驚いたが、現在ではまた来たなという感じ。先に紹介した『ソロ』が還暦記念『月刊 藤井郷子』の第1弾で、第2弾が『KAZE/Atody Man』、このオーケストラ ベルリンが第3弾ということになる。
どこを切っても唯一無二の音がする、際立って「個性」的なオーケストラサウンドである。野生と構成との共存が見事であり、そこからはヨーロッパ的なものを感じ取ることができる。
アクセル・ドゥナー(トランペット)、ジャック・ディミエール(ピアノ)、ヨナス・コッハー(アコーディオン)、3人の頭文字を並べてDDKトリオ。卓越した技量と研ぎ澄まされた精神をもって繰り広げる即興演奏を通じて、常ならぬ音楽的要素に気付かされる。
気鋭のサックス奏者トラヴィス・ラプランテと、現代最高のドラマーであるジェラルド・クリーヴァーによる、聖性すら宿る「結晶」デュオ。
日本地下音楽シーンの個性派二人による音楽の消失した先にある表現の地平を垣間見せるミニアルバム。即興音楽の深みと味わいを強く感じさせる宝石の一枚。
札幌出身、ドイツ在住のシンガーソングライター NILO の最新作。都会の日常に寄り添う切なく優しい歌詞とメロディー、美しく緊張感のあるサウンドの対比と融合が素晴らしく心に沁みる。
最初筆者があまり得意でなかったキースのこのトリオ、彼は1988年に病に倒れ、2年間の療養の後グルーヴ感をすっかり変えた。それを記録する貴重なアルバムがこの『After The Fall』。この「スタンダーズ・トリオ」のタイム感のすごさを解説。加えて、名曲<Old Folks>での、キースには珍しい彼のインプロの垂直アプローチを掘り下げてみた。
まさにあのセロニアス・モンクが突如、現代に甦ってきたことを実感させる、素敵なアルバム
音楽シーンの「はぐれ星」であるレント・ロムスとライフス・ブラッド・アンサンブルの最新作は、「JAZZ」という伝統的なスタイルに秘められた無限の可能性を探索するピュア・ジャズの意欲作である。
Nobieを象徴し、3カ国3人のご機嫌過ぎるギタリスト、リオーネル・ルエケ、トニーニョ・オルタ、馬場孝喜との素晴らしいセッションを集約したのが本アルバムだ。
これまで、挾間の編曲プロジェクトよりも、自身のm_unitで演奏されているようなオリジナルをもっと聴きたいと思って来たが、挾間がジャズの古典に新しい生命を持たせる魔法もより楽しみになって来た。
二度とこの演奏には出会えない。この録音以外では。つまりこのライブが企画され、録音されていたことが、そしてこのように届けられたことが僥倖である。
CDを収めると辛島のポークパイ・ハットがCDで覆い隠される、グッドバイ・ポークパイ・ハット…合掌。
ことばを声に出すこと—詩が「うた」となる尊さを、最大限に掘り下げたアルバム。ときに囁くように、ときに演劇的な台詞回しで、ときに音塊と化したスキャットで、シラブルが、単語が、フレーズが、きらきらと輝いて飛躍する。/ Speaking words out loud and then turning poetry into song; this album delves deeply into such precious moments. Sometimes whispering, sometimes with dramatic elocution, or sometimes in scatful bright clusters of sound. Syllables, words, and phrases dazzle and leap.
華々しいキャリアを誇るジーン・ジャクソンが、遂に初リーダー作となるピアノトリオ盤を出した。これまでのジャクソンの参加作よりも、ドラマーとしての傑出した個性を前面に押し出しており、非常に聴き応えがある。
Christian Lillinger 率いるオールスターグループの最新作にして、レーベル設立第一弾。一曲一曲が奇妙な小宇宙である全編にわたって、彼の美学とスネアドラミングが行き渡っている
無言歌がロマン主義の賜だとすれば、『For 2 Akis』においては、まさにどの曲もネオロマンチシズムの情緒に満ちあふれている。いや、過剰とさえ思える程だ。
このトリオ、ドラムのかわりにチェロを入れたことによりエネルギーのバランスがソフトになり自然で一体となって溶け込んでいる。
『For 2 Akis』は、ECMと日本を巡るさまざまなストーリーの広がりと収束を秘めた特別なアルバム
“In memory of John & Kenny”—−このアルバムは、ジョン・テイラー(1942年9月25〜2015年7月17日)とケニー・ホイーラー(1930年1月14日〜2014年9月18日)の思い出に捧げられている
地獄から復活したクラリネット奏者ピーター・キューンの活動の核を成すトリオの新作にあふれる無為自然の意図は、レント・ロムスと共振する西海岸即興シーンの奇跡的な超越的集合体を産み出した。
姜泰煥ほどポリフォニックな奏法を駆使するサックス奏者はいない。独特な音の上下動で表出されるダイナミズム、そして繊細な表現から導き出される叙情性といい、本盤は姜泰煥の持ち味を見事に捉えている。
新作『Invisible Threads』8曲目以降の、孤独で切ないサーマンという被り物を脱ぎつつあるような美意識でもって、そうさなあ、2CDライブ盤を制作してみてはどうだろう
まあ即物的と言えば言えますが、ここまでのアナログ・サウンドを今、どれだけの人がやれるでしょうか。
石田幹雄の「真骨頂」をとらえた、待望のソロピアノアルバム
教会オルガンの音色が必然的に持ってしまう文化的な文脈、その抑圧といったちからとの相克、サン・チョンとダウンズが創ったこのサウンドを聴くわたしたちリスナーは試されているようだ、
復活したピーター・キューンによる、「因縁生起」という名のスペクタクルなフリージャズ。
ベルリン在住の奥田梨恵子によるピアノソロは、フィードバックの偶発性を意図的に利用し、トーナルなものを執拗に追及した、驚くべき作品である。
「天音」は、実はお酒の名前でして、この音楽を聴かせながら発酵したという代物。
根底にある二人の心根の優しさが時を越えてありのままのエモーションを語りかけてくる。
福盛進也のドラムワークは、法王ポール・モチアンの系統を強く感じさせるものでもある、そこがこのアルバムに耳をそばだてる強い引力になっている、
コルトレーンのバラードは優しく空間を包み込むように広がりを見せるが竹内直のバラードは前へ前へと直進してくるようなリアリティ、切実さがある。
『The Expedition(探検)』というタイトル通り、レント・ロムスたちの音楽探検の旅が記されたたサンフランシスコ・シーンの息吹を感じる最高のドキュメント。
JBLとチャド・テイラー。さまざまな活動によって暴れてきたふたりのデュオは、意外にもジャズ回帰であった。しかし、それは、極めて野心的で骨太なサウンドである。
アムステルダム在住ブラジル人リード奏者 Yedo Gibson と、バルセロナ在住ポルトガル人パーカッショニスト Vasco Trilla による、コスモポリタン・デュオユニットの第2作。Yedo Gibson の“あれ”に心奪われる。
フランスのトリオによる『白鯨』をテーマとした音楽劇。人間とモビィ・ディックの描き方の対比が趣深い。
「ノイズを食う怪物たち」3人による、ロックやフリージャズやファンクを取り込んだ楽しき即興音楽
地下音楽のカリスマ灰野敬二とトルコのオーガニック・ミュージック・コンボ、コンストラクトの共演は、二つの世界の境界を滲ませる灰野哲学の伝承である。
灰野敬二とUK即興サックス奏者ジョン・ブッチャーの共演ライヴ・アルバム。タイトル通り『眩しからぬ光』が両者のコラボの変化と発展の動機/要因/目的/希望である。
ピアニストの田中鮎美がサウンドに新しい重力をもたらしているようだ、
井上陽介と高橋信之介が聴いているこちらにはあたかも黒子に徹してプレイしているように見えながら、その実、トリオとしての音楽的展開の中枢をにない、大西との会話をスムースに運ぶ役割をも果たしている点で、今日の本邦を代表する屈指のピアノ・トリオであることを私は再確認した。
前作と合わせて聴くと林の円熟、メンバーの変遷などをへて「ガトス」が林のワークショップとしての爆発力、集中度、洗練度が磨き練られた一つの着地点と云える。
結成から20年を迎えたサンシップ。いまも変わらず人間の熱い音を聴かせてくれる。
サンフランシスコのサックス奏者レント・ロムスのレギュラー・グループ「Lords of Outland(ガイキチ君主)」の最新作。西海岸の緩やかな共同体は音楽の精神的治外法権を志向する。
ジャケットのアイスクリームのようには甘くない。が、とびきり旨い。シカゴ新世代テナーサックス奏者によるパワフルなフリージャズ。
鬼才レント・ロムスが長年率いる「Lords of Outland」の最新作は、おもちゃ箱のように楽しいもの面白いものを詰め込んだ、10編のポップなサウンドアート
『板橋文夫+結/謡文』(MIX DYNAMITE 2017)で民謡と板橋ミュージックを合体、類例を見ない世界を築き上げた。
三者三様のベストプレイが炸裂するこのアルバムを聴いていると、世界の中心で“ジャズ”と叫びたい気持ちになれる。
ぼくらは歌ではないから器楽用に挑戦的なアレンジも施したりしてますが、でもやはり基本はボストンのあの空気感を録りたかったので別段複雑にしたつもりもありません。
叶わぬ過去、光明への助走期のような現在、未知の世界へのイマジナティヴな眼差しなど—こころの春秋がページを繰る毎に木漏れ日のようにたち現れるソング・ブック。/ This album is a songbook that the spring and autumn of one’s heart — unfulfilled past, run up period towards a bright future, imaginative look at an as-yet-unknown world— appear like sunlight filtering through the trees as the pages are turned by.
ドイツ出身のギタリスト、即興演奏家、作曲家Hannes Buder の新プロジェクト。ここで彼はギターではなく、チェロのみを弾いている。弦の響きが時の経過とともに織りなすドラマ性、時に荘厳さすら感じさせる幽玄美の中から、うっとりするような彼特有のリリシズムが透けてくる。
通して聴くと72分41秒、『TAMAXILLE/Live at Shinjuku PIT INN』は(本田)珠也のリズム、4人のスイング感、グルーヴが全てで、かくしてピットインの夜は更けてゆく。
“即興の創造的な強靭さ・歴史・一期一会を共有する人々を橋渡しする”プロジェクト『Deciduous(落葉)』は、森の中の精霊を創造の種とする即興演奏のルーツを復興する試みといえよう。
エイブラムスが残したデュオ作品のなかでもひときわ独特な魅力を持った作品。
「即興とソング」をテーマに活動する世界随一の雑食性バンド、ヒカシューの23枚目のオリジナル・アルバム。結成39年目にして創造力の極みを更新し続ける彼らに、注目の若手サックス奏者クリス・ピッツィオコスをはじめとする個性派ゲストが加わり展開されるサウンド・ワールドは、迷える現代人への黙示録である
シーネ・エイのジャズ・ヴォーカルの実力と魅力を味わい尽くせる素敵な新作であった。バックのセンスのいいプレイをも称えたい。もっと人気が出ていいシンガーだ。
公演チラシを2枚、この過剰な形容にわたしは大いに納得している、
ロシア・サンクトペテルブルクを拠点に活動するジャズ・ロック・バンド、Kubikmaggiによるサード・アルバム。上原ひろみを思わせるプログレッシヴ・ジャズ・ロックな音像に、フリー・ジャズや音響派の要素も入り混じった内容で、職人技の生演奏による折衷主義の極北をいくような音楽だ。
ノルウェーのグループNakamaのベーシストとしても知られるクリスティアン・メオス・スヴェンセンによる新作は、アヴァンギャルドかつエクスペリメンタルなこれまでの彼のイメージの斜め上をいくような、極上の「歌もの」に仕上がっている。スヴェンセンの関心領域の幅広さと音楽的能力の高さを知らしめる傑作だ。
ノルウェー・オスロを拠点に活動する四人の若手即興演奏家によるセッションの記録。活発化するノルウェーのインプロ・シーンの現在を伝える必聴のドキュメントだ。
伊藤志宏のピアノは美しい。音が違う。ジャズだのクラシックだのといったジャンルの分化以前に、「ピアノ弾き」たる者なら誰もが憧れずにはおれないが、到達できる者はごくわずかの天賦の領域。/ Shikou Ito’s piano is beautiful, the sound is simply different, and his lightning fast direct connection of brain and fingertips creates a dewdrop-like transparency. Before differentiating into the jazz or classical music genre, anyone who considers themselves a “pianist” has no choice but to admire this kind of playing, and acknowledge that only those belonging to a narrow realm of natural talent can attain such heights.
本作『グノーシス』は源泉『エムボコ』をECM的カレードスコープ化した作品に思える、クラシックのマーケットに並べられてもいいような構成感覚もある、
「ベース奏者によっていかにレベルが上がるものか」と形容できるベーシストはジャズ史において、スコット・ラファロ、ゲイリー・ピーコック、トーマス・モーガンだけです、
だめだ、なみだで目が見えない、フリゼール、お前、わかってるじゃねえか、うううっ、作曲したモチアンがよみがえってくるぜ、その心意気、しかと受け取った、
チェス・スミスはトランス状態になってはいないか?いつの間にプロデューサー席から怪人デヴィッド・トーンがそこに現れているではないか、
このCDは、非イディオマティックな即興演奏という、音楽生成のあり方において最上の記録のひとつであることは論を待たない。それを理解するには、聴くという方法以外には無い。
自他ともにマイルス・フリークとしてしられるヒロ・ホンシュクであるが、本アルバムではさらに飛躍してジョージ・ラッセル(p,comp,arr)、マイルス・デイヴィス(tp)、ビル・エヴァンス(p)そしてヒロ・ホンシュク(fl,EWI)がサイクリカルに巡っている。
ジャンルやスタイルに回収できないニューフェルドの音楽は、決して聴き易いものでもなければ、わかり易いものでもない。しかし、そこに定着された、潜勢や気配から発すべき音を掴み取り、無から有へ跳躍するその瞬間の生々しさには抗し難い重力、強度が宿っているのだ。
静と動、ダイナミックとフローティング、めっちゃカッコいい表題曲「Far From Over」、ジャズイズカミングバック!
伸びやかなトランペット・トーンの陰影を含んだECM独特のヨーロッパ詩情、これに尽きる名盤だ、
北欧から登場したネオ・ハードバッパー、コルテックス。政府の援助を受け、自ら前衛を名乗り、往年のフリージャズを装いながら、シーンの内側から革命を模索する音楽闘士が奏でる『アヴァンギャルドなパーティ・ミュージック』は新たな創造性へのプロテスト・ソングである。
2004年から活動を続けるアヴァンユニット・Talibam!の新作2枚。仮想のSFサウンドトラック、サイケデリックなロック。まるでタイプの異なることこそ彼らの真骨頂か。
そんな新しいリズムの探求に貪欲な若い世代のジャズ・リスナーにとっても、この本宿宏明(ヒロ・ホンシュク)が提示する“New Kind Of Jazz”は相当刺激的に響くはずだ。
永遠の師マイルスの “常に新しい方向に進め” という教えをモットーに、ヒロとそのバンドは “今までに聞いたことのないグルーブ感”、すなわち21世紀型のハイブリット・ミュージックを探求、その創出・深化の過程にある。
ウェルメイドな楽曲を手がけるギタリストが数多くいる現代のジャズ・シーンのなかで、演奏家としてオリジナルな響きを生み出すことのできるミュージシャンはほとんどいないように思う。
姜泰煥、高田みどり、佐藤允彦による唯一無二のグループ、トン・クラミ。22年を経て陽の目を見る圧倒的な演奏である。苛烈なエネルギーを放出した『In Moers』よりも多彩であり、ショーケース的な『Paramggod』よりも一期一会の迫力に満ちている。
即興演奏、いやアジアのコンテンポラリーな音楽の新たな地平を拓いた歴史的なユニット「トン・クラミ」(姜泰煥、高田みどり、佐藤允彦)のライヴ録音がCD化された。
マックス・ジョンソン、クリス・デイヴィス、マイク・プライド、スーザン・アルコーンという傑出した四者が、別々のタイムフレームを持ちつつも同じ時空間を共有しているかのようなサウンド。ジョンソンのウォームなベースはその中で見事に浮かび上がっている。
フォーキーなテイストからソウルフルな歌声までを自在に操ってみせるインド出身で日本在住のヴォーカリスト、ティーによるデビュー作。
インプロも含めすべてのパーツが「あるべき音」としてぴたりと収まる完成度の高さと、あらゆる楽器を受け入れてしまいそうな懐の深さが同居、ライヴでのハプニングが楽しい所以だ。/ Including rich improvised parts, a high level of completeness in which all the fragments precisely fit as true sounds is combined with a deep acceptance of every instrument; this is why their spontaneous live show is such fun.
アルトサックスの柳川芳命とドラムスのMegによる独創的なデュオ、その区切りとなるライヴ盤。
ノルウェーのグループNakamaのドラマーを務めるアンドレアス・ウィルトハーゲンらが率いるバンドAkmeeのファースト・アルバム。
黛敏郎が16歳から36歳までに作曲したピアノ曲の世界初録音。1945年から1965年という戦後20年間の日本を背景に、かくも芳醇な音楽が湧き出ていたことに驚く。/ This album is the world’s first recording of piano pieces composed by Toshiro Mayuzumi. All the pieces were written over 20 years from the age of 16 to 36, and it is surprising that against this background starting from 1945 post-World War II Japan, such well-mellowed music was bubbling forth.
若き鬼才クリス・ピッツィオコスを擁するNYハードコア・ジャズの個性派カルテットの企みは、無垢な時代のフリージャズ・スピリットを取り戻し、ミニマリズムに接近したストイシズムによる新時代へ旅立ちである。
ある意味、このカルテットはよく鍛えられた「デュオのデュオ」と言えないだろうか。
特異なアルト奏者・川島誠。自己の裡にある他者との対話により、あるがままを表現する。
土着の音楽の憚らぬ喜怒哀楽と、同時に追求される「表現すること」の究極形—その軌道が高次元で交わるトータル・ミュージックの一つの到達点。刹那の振動をも決して逃さぬレコーディングの技倆はもとより、制作サイドの澄み切った感性も結実している。/ We find the unhindered human emotions of indigenous music and the ultimate form of the necessity “to express” concurrently sought; this work is a height of total music in which these orbits intersect in higher dimension. The recording techniques, which never miss a single nuanced moment, and the perfectly clear sensitivity of the production-side completes the successful fruition of this album.
アルバム全体が人生行路を現しているように起伏に富み、互いのシーンが有機的に連なってゆく。そういう意味での『Concentric Circles』であり、曲ごとにダウンロードする聴き方がそぐわぬアルバムだろう。ベース・ソロによる終曲は、生の手触りへの賛歌であり、生活感情が失われた現代においてことさらに哀愁を帯びて心に残る。/The whole album is full of ups and downs as if representing life’s journey, and mutual scenes are organically strung out. In this sense, it is truly a matter of “Concentric Circles” and it is an album that downloading individual pieces and listening will not suit. The final piece played with a bass solo is a paean to the touch of life, and tinged with the sadness found especially in modern times where the joys and sorrows of everyday life have been lost; it lingers on unforgettable in the listener’s heart.
タイトルの『ザ・ドアー』は、彼がこれから開こうとしている“扉”の様だが、その新たな“扉”の向こうには、ジャズ・ファンをコアにより広範なリスナー層が広がっているのか…。
コンセプトの目新しさ云々を問う以前に、真のヴィルチュオズィティとは何かをこれほど端的に体現するアーティストは稀である。/ Before discussing the novelty of a concept and so on, we need to define what is a genuine virtuoso performance, and appreciate that a musical wizard, such as Nabatov, who clearly embodies mastery of his arts is rare indeed.
高柳昌行との出会いでギターを弾き続ける人生を選んだ今井和雄のエッセンスが集約された初のギター・ソロ・アルバム。即興音楽の極北を歩む不屈の魂は、心浮かれる村の鍛冶屋の槌音と同質である。
ヨアヒム・バーデンホルスト率いるカラテ・ウリオ・オーケストラは、コスモポリタンの音楽、雑踏の音楽、手作りの音楽である。
さすがはカルロシュ・ズィンガロを筆頭としたポルトガルが誇る百戦錬磨の面々、西洋の括りを超えるフォーキーな旋律、幾重にも折り重なるミニマルなフレーズや同音連打からは抽象のマグマが押し寄せる。/As heard in the folksy melodies beyond categories defined in the West, and the several minimal phrases layered one on top of another along with repeated notes, abstract magma is surging forward.
ローレン・ニュートンとスイスの二人の若手ゼバスチャン・ストリニング(ts, bcl)とエマニュエル・クンツィー(ds)との「ブラインドフラッグ(盲目的飛行)」というバンドによる全編即興演奏。三者の交歓は、バンド名さながらに未聴のサウンドへの探究心に満ちている。
全コラム# 51, マット・ケインとカンザス・シティ・ジェネレーション・カルテットのメンバーの一人、ハーモン・メハリが新アルバム『ブルー:Bleu 』をリリースした。
カンザス・シティ期待の星、ハーモン・メハリにその後の活動の様子や新アルバム『ブルー:Bleu 』について聞いてみた。
そのほぼすべてに岡部の ”ディスオリエンタル” 意識が反映されていて興味深い。
故人をしのぶような湿っぽい演奏ではなく素材としてミシャの作品を取り上げたもので、ミシャのちょっとひしゃげたような皮肉交じりのユーモアとは一味違った明るく華やかでスインギーなものになっている。
即興演奏から作曲作品へと進化を続けるNYシーンの若き戦士クリス・ピッツィオコスが、2作目のサックス・ソロ・アルバムを発表した。これまでの過激なインプロヴァイザーのイメージとは異なる、知的で静謐なサウンドを聴かせてくれる。タイトル通り「豊潤な音楽への愛」に溢れた新境地。
自由奔放、縦横無尽、時にリリカルに響くこのトリオは、マニュエル・ヴァレラがキューバ出身という枠をはるかに超えて、現代ニューヨークのベスト・トリオの一つであることを高らかに宣言した。
堂々としたプレイでメインストリームを歩むJBL。ヒップホップやソウル/R&Bと共存しストリート感覚が爆発した素晴らしい作品である。
硬い事は考えずに、楽しくスイングするジャズを聴きたければ、これを選べばモンクはない。
これは伝統と化したオランダのコンテンポラリーかつコンサーヴァティヴなジャズの姿だと思い、存分に楽しめば良い。ミシャの名を知らぬ人達も一緒に。涙を流す必要など無いのである。
私はこのアルバムに対して極めて「不安な希望」を持っている。
ニューヨークの即興・ジャズシーンにおいて、多面的な活動を続けるブランドン・シーブルック。悪夢的で不穏、また愉快でもある騒乱は聴く者の記憶に刷り込まれる。
過去の名作のパロディを隠れ蓑に、アヴァンギャルドなプレイを繰り広げるベーシストのモッパ・エリオットが率いるユニット、モストリー・アザー・ピープル・ドゥ・ザ・キリングは、結成13年目を迎えて意気軒昂な活動を繰り広げている。10枚目のアルバム『Loafer’s Hollow』では、20世紀文学を代表するアイルランド出身の作家、ジェイムス・ジョイスや、現代アメリカの作家たちに捧げられた5曲の文学組曲が、アルバムの中核をなしている。リーダーのモッパ・エリオットは、1930年代のスウィング・ジャズと20世紀文学の融合を現代の視点から図るという、壮大な実験を聴かせてくれた。
セファルディの音楽、カーボヴェルデの音楽、エーゲ海の島々にある歌音楽。日本ではなかなか聴く事の出来ないこれらの音楽を知るきっかけとして、リラックスして鑑賞する事の出来るアルバムではないだろうか。
イオン・トリオによる最初のアルバム『エレジー』では、多様なジャンルの先行者たちの楽曲に範を取り、ジャズの歴史とクラシックの歴史が〈ECM Records〉において交差したところの影響を汲み取りながら、しかしこの三人にしかなし得ないローカルな音楽として結実している。
日本の地下音楽を世界に広めたPSFレコードの最後の作品。22組のアーティストが未発表・新録音トラックを提供、トータル150分を超える大作。スタイルも方法論も録音状態もバラバラながら、全体を曰く言い難いひとつのカラーというか香りのようなものが貫いている。それを言い表そうとすると「サイケデリック」という言葉が最も適切だろう。
蓮見令麻率いるピアノ・トリオによる最初のアルバムは、ピアノの奏法とインタープレイの在り方において菊地雅章からの深い影響を感じさせるが、その声の特異性においても響き合うものがある。それはピアノの旋律をなぞるときでさえ「うたい損ね」ではなく損なわれることのない「うた」そのものなのだ。
その結果、アルバム『The CONSCIENCE』はラザフォード、“SABU”豊住双方のソロ・アルバムでもあり、その上に二人のデュオが成り立っているように聴こえる。
稀に一期一会ともいえる貴重な出会いが音盤として日の目をみることがある。これはまさにそのような一枚だ。
後半、エレジーのリプライズからの4トラック、への展開が、特に素晴らしい、ブレックマンの声が躍動する、このセッションの熱気が一体化している到達、同じドイツのWinter & Winterレーベルから引っこ抜いただけある、
まるでアクローム絵画を見ているかのような音楽だが、この美的感覚を成立させている根底にあるものに同調できるか、あるいはこのような佇まいをした音楽を自分の生活空間にどう関係づける事が出来るか、
橋本孝之による26分間の即興、アルトソロ。これを聴く者は、異形生命体が生き延びんとするプロセスを幻視することになるだろう。
そして、このオデッド・ツールは、マーク・ターナーが拓いたマーケットを明確に狙っているサックスの鳴らしを武器にしていることは明白だ、
さて、これはジャズなのか? そうだ、まさにジャズなのだ。何故ならジャズとはハイブリッド音楽の意識であり、そして他のいかなるシーンもこういう音楽を産み出す事はなかっただろうから。
タイトルの『Decayed』は「腐った、衰えた」という意味だが、発音が同じ「Decade(10年間)」とのダブル・ミーニングであるのは間違いない。前作から10年後、2015年12月13日荻窪アケタの店での実況録音である。
DJ/プロデューサー/文筆家として多方面で活躍してきた大塚広子による、現代日本のジャズ・シーンを取りまとめたコンピレーション・アルバムの第三弾。『Jazz the New Chapter』シリーズがあえて取り上げることのなかった日本の現代ジャズ・シーンに触れてみるための、貴重なリアルタイム・ドキュメンタリー・アルバムである。
すでにいくつかのレビューで触れられているとおり、後期の菊地雅章の到達を、この蓮見令麻のピアノは備えている、が、
ピアノのティモシー・バンシェット(p)とドラムスのジェイミー・ピート(ds)はここ数年グレールムとのトリオのほかアムステルダムを中心に精力的に活動している若手で、二人とも楽器を鳴らし切っているところが好感を持てる。
成熟が内包するスリルと、決して飼い慣らされぬ気高さ。移ろう一瞬が遺す残像の数々に絡めとられつつ、「うた」が志向する極北のエレガンスが味わえる。It is purely the thrill contained in maturity and an untamed noble dignity. Captured by the numerous residual images left by each fleeting moment, the listener can only enjoy the ultimate elegance that the “songs” and performers aspire to achieve.
リスボンとバルセロナを股にかけるクァルテット。果てしなく続いていきそうな壮大なフリー・インプロヴィゼーションは、沈黙から爆音まで最大限の振れ幅でありながらも、緩みを一瞬たりともみせぬ頑健な構築力で無敵の存在感/Spanning the jazz scenes of Lisbon and Barcelona, this full-on quartet and their spectacular improvisations ranging from deep silence to roaring mayhem give the impression of a never ending river.
この『Daylight Ghost』の最大のポイントは、ズバリ、管のクリス・スピードの存在だ、このナナメになった棒読みトーンの官能だ、
『Mockroot』の世界に、耽溺したうえで、このピアノ・ソロ作品は受け止められなければならない。
借りパクも、剽窃も、孫引きも、ポップスの凶悪で生命線な力学である、これをジャズとして聴けるのかというと申し訳ないがまったくノーだ、
ティム・バーンの自己レーベル「スクリューガン」からリリースされるという事実、これが示すのはマット・ミッチェルの拒絶か、ECMアイヒャーの却下である、
さりげなく21世紀型つんのめるドラムンベーススタイルのタイコの叩きを添えているのも、「コレが新しいんだ、カッコいいのだ」と鼻につくところもない(とっても重要)、つまりは、スマートなのだ、
作曲の否定や即興の称揚というよりも、インプロヴィゼーションによって現れるだろうオルタナティヴな構造化――スポンティニアス・コンポージング――の探求。少なくとも本盤に残された有機的に発展していく「即興音楽」は、そうした行為のありようを物語っている。
その潔さとみずみずしさはジャズの本場からアウェイでいられることの大いなるプラスの面に違いない。
「ジムノペディ」についての謎はともかく、のっけからフル回転する狂騒のソロ爆発~立花秀揮(as)、石渡明廣(g)、山田あずさ(vib)~には久々に脳髄がほてった。
このアルバムでは全13曲を通し、”レベル8“(どうやらユニット名でもある様だ)に於けるこれまでの成果(そこには当然50余年に亘るギター人生も反映されているが…)を、無理ない形でしかもきっぱりと開示する。
「Overseas」シリーズ最新作。作曲の才能や、柔らかくも力強くもサウンドを駆動するベースプレイをみせるアイヴィン・オプスヴィーク。豊潤極まりない音色のテナーを吹くトニー・マラビー。フォークやロックの影響を織り込みながら、暖かく、ドラマチックな音楽を展開している。
アナット・コーエン(ts,ss,cl)、オメール・アヴィタル(b)らに続く、ニューヨーク・ジャズ・シーンを席巻する新世代のイスラエル出身アーティストの中心的存在のヨタム・シルバーステインの最新作。ジャズ、ブルースから、ブラジリアン、中近東音楽、フラメンコ、アルゼンチン、ウルグアイの音楽がブレンドされながら、ケニー・バレル(g)、ウェス・モンゴメリー(g)、グランド・グリーン(g)らジャズ・ギターのトラディションの王道を往き、レニー・トリスターノ(p)の音楽理論を踏襲したアルバムである。
35年ぶりに再発された地下音楽の極北作品。大音量のノイズ演奏と言えば高柳昌行の「集団投射」を思い出すが、NORDの轟音演奏の起伏の大きなストーリー性は、心の中のセンチメンタリズムの証に違いない。泣けるノイズは新鮮な驚きです。
ダーシー・ジェイムス&シークレット・ソサエティや、自己のグループ、テリ・リン・キャリントン(ds)のモザイク・プロジェクトで活躍する、イングリッド・ジェンセン(tp)と、カナダのマリア・シュナイダーと異名をとるクリスティン・ジェンセン(as,ss)の、姉妹の20年に及ぶコラボレーションは、ベン・モンダーが加わり、本作『インフィニチュード』で、新たなフェイズのスタート・ポイントに立った。
鬼才クリス・ピッツイオコスが率いるニューヨーク・ネオ・ロフト・シーンの猛者からなるCPユニットは、音楽的エントロピーの増大に深く関与する音楽を創造している。目指すは音楽の”終焉”の先にある甘美な風景である。
クラリネットとマリンバだけが作ることができる美しさと切なさが溢れる時間に浸り、日本的な風景と心を感じさせながら、甘い余韻とともにアルバムを締め括る。いや、マリンバ&クラリネットをもっと聴きたいという欲求を残されて困るではないか。
10人が10人、90歳を超えてこんなパンチのある溌剌とした声量で歌えるものかと誰しも怪訝に思ったのではないか。、実際、終盤になって熱狂的な大歓声の中で再登場したベネットは、彼の十八番といっていい「ザ・ベスト・イズ・イエット・トゥ・カム」や「霧のサンフランシスコ」などをいかにも喜びを爆発させるように歌った。
ジミー・コブが偉大なる先達から受け取ったジャズの伝統の松明が、コーエン、中村、ルイスへと手渡された瞬間が克明に記録されたドキュメントとも言える作品である。
あくまで五線譜との乖離において拡張/探索されているピアノそれ自体の可能性――それを聴くことはやはりどこか落ち着かなさを覚え、不気味であり、しかしこの上もなく美しい。
トータルで60分に及ぶ3トラックのインプロヴィゼーションだが、長さを感じない。精神と技巧、経験と天啓との幸福な結託の記録。デビュー盤とは思えぬ肝のすわった貫禄である。演奏家とエンジニアのふたつの視点をもつ近藤秀秋のサウンド・ディレクションも秀逸。空気を切り裂き、跳躍し、収斂していく夥しい音の生が鮮やかに浮かび上がる。
緊張、響きの美しさ、ユーモア、相互干渉と相互作用、音楽をなんらかの形にして提示せんとする「気」。強度の高い即興デュオ。
井上は昨今、大西順子トリオのベーシストとしても活躍しているが、最終曲では大西がゲストピアニストとして<Never Let Me Go>に参加、しっとりとしたバラードを聴かせる。
児玉 桃が紡ぎ出す18の音の小宇宙へ。
究極の音の領域に踏み込むECM第2作。
ひとえに言語や文化的な縛りを超えたところを、音符やリズムの型のその先にあるものを志向する、フィーリングへの徹底した求心性。プレイにおける即興的な醍醐味は少なくなるが、静謐さや削ぎ落とした美には共感する人は多いだろう。サウンドがシェイプされる毎に、モノをいうのはメロディそのものの強度である。
メーメトはこのアルバムを通して、西欧とイスラムが対立する中、それぞれ出自の異なるミュージシャンが出会い、トルコ(イスラム)の音楽とジャズの融合を通してお互いをより深く理解しあうことが大切であることをアピールしたいという。
聖地・高円寺グッドマンから現れたリード&ドラム・デュオによる叙情曲集は、パンドラの箱からフリージャズの精霊たちを解放し、ギミック無しの生のジャズのパワーを世に知らしめるパラレル・モーションである。
“Dr.Jazz”こと内田修先生の訃報と時を同じくして届けられた。岡崎市制100周年の記念事業として編まれたものだから、刊行が先生の死と相前後したのはまったくの偶然だろうが、先生はこの労作の完成を目にされたのだろうか。
フランク・キンボロウ(p)は、唯一無二の美しいピアノ・タッチとメロディ・センスで知られ、現代ジャズ・ピアノの吟遊詩人ともいうべきアーティストだ。本作では、カーラ・ブレイ(p)、ポール・モチアン(ds)、アンドリュー・ヒル(p)、アネット・ピーコック、マリア・シュナイダー(arr・comp.)ら曲をカヴァーし、自らの30年を越す音楽キャリアで影響を受けたアーティストをオマージュしている。恩師ポール・ブレイ、アンドリュー・ヒル亡き後、その遺鉢を継ぐことをフランク・キンボロウは、静かに宣言した作品である。
今年2016年7月8日に、東京・永福町にある残響の美しいホールsonorium で行われた、コントラバス奏者・齋藤徹のライブコンサートの録音。
NY即興シーンで切磋琢磨し、イギリスへ戻った即興音楽の求道家が放つ鉱物的サウンド・スカルプチャー。インプロヴィゼーションの極意は半人半獣の女神の微笑に包まれる。
ニューヨーク・ジャズ・シーンのファースト・コール・ドラマーのルディ・ロイストンは、セカンド・アルバムの『Rise of Orion』で、前作のメンバーのジョン・イラバゴン(ts,ss)と中村恭士(b)とのトリオで、スポンテニアスに凝縮された音世界を構築した。今のルディ・ロイストンの心の葛藤の中から生み出された、自らに誠実なスピリチュアルなサウンドが響き渡るスマッシュ・ヒット作だ。
ビリー・ハートとクリストフ・シュヴァイツァーのふたりに共通する美点は、そのツボを押さえた大局的な音楽展開はもちろんのこと、音楽の血であり肉であるソウルフルなフィーリングが極めて自然に湧出する点にある。切り口は知的で多彩だが、いかなる時も音楽としてブレがない。
名古屋を拠点に活動するアルトサックス奏者・柳川芳命(やながわほうめい、数年前に「やながわよしのり」より改名)による、2016年のパフォーマンス集。4つのパフォーマンスを収録、そのすべてが共演者違い。レーベルは柳川自身が運営する極音舎。
アルトサックス奏者・望月治孝による2016年発表作。同年、静岡江崎ホールを借り切っての録音で、アルトサックス独奏。
タイトルの『Dream Deferred』は、1951年に出版されたアフリカ系アメリカ人の作家、ラングストン・ヒューズの詩『Harlem』の一節から引用されている。ピーターソンがアルバム・レコーディングの最初のリハーサルをした2015年10月に、同年4月にボルチモアで起きた3人の白人警官によるアフリカ系のフレディ・グレイフレディ・グレイ殺害事件の最初の裁判を聞き、頻発する白人警官による無実のアフリカ系男性への暴行事件に対する、ピターソンの怒りが、生み出した作品である。
デイヴィッド・S・ウェア(ts)とマシュー・シップ(p)の初のデュオ・アルバム。17年間の共演歴に培われた41分の即興演奏に、<スピリチュアル・ジャズ>という言葉を、生まれ落ちた時の汚れのない裸体に巻き戻す魔法の力を感じる。
今回の作品ではFIT! をクッションにMARDSの面々が大きくクローズ・アップされていて、まるで望遠レンズで撮ったように夫々の個性が前面に広がってくる。
いわゆるコンピレーションものではなく、「ギラ・ジルカ & 矢幅歩 SOLO-DUO」の名唱、名演を選び抜いたアンソロジーといった面持ち
これまで何度かライヴで聴かせていただいているが、これほど4人がベクトルを合わせ音楽に熱中しているユニットはなかなかない。
現代ニューヨーク・ジャズの次代を担うと大きな期待を集めている、1986年にカルフォルニア州サンタクルーズに生まれたレミー&パスカルの一卵性双生児兄弟のル・ブーフ・ブラザースの第4作は、スティーヴ・ライヒ、ジョン・ゾーン(as)とのコラボレーションでも知られる現代音楽ストリングス・ユニット、ジャック・クァルテットを迎えた、コンセプチュアルな野心作だ。ニューヨーク・ジャズ・シーンに、また新たな潮流が巻き起こる。
ここでのシリルは定則ビートに忠実なドラミングを展開しているわけではない。大向こうを唸らせるようなプレイとは無縁の、ここでのサウンドに即したリズムの在りようを見出し、ビル・フリゼール、リチャード・タイテルバウム、ベン・ストリートらが描きだすサウンド絵巻や音の情景描写にふさわしいパーカッシヴ・サウンドを、あたかもスティックを絵筆に代えたアーティストとなって生み出している。
1987年生まれのサックス奏者ハラルド・ラッセンによる最初のアルバムは、まだ若い時分に北欧ジャズ界の巨匠アリルド・アンデルセンとヨン・クリステンセンに才能を見出されていた彼の、その活動に根差す音楽性を改めて捉え返した記念碑的な作品である。
ダーシー・ジェイムス・アーギュー率いるシークレット・ソサエティは、ポスト・マリア・シュナイダーのジャズ・ビッグ・バンドの中でも、最右翼の存在である。
デイヴ・ブルーベックをアイドルと崇めるザビーネ・キューリッヒ(vo)と、ベルリン出身のライア・ゲンク(p)のデュオによる、偉大なるピアニストへのオマージュ・アルバム。
マイケル・ブランコは、2000年にニューヨークに拠点を移し、自己のグループ、アラン・ファーバー (tb) らのアンサンブルで活躍するベーシストで、堅実なベース・ラインと作曲の才能も高く評価されてるアーティストである。
本作は、自己のクヮルテットにリード奏者ふたりとヴォーカルをゲストとして加えたコンボ編成。オーケストラ経験も豊富なフリックの音楽はスケールが大きく、コンポーザーとしての大器ぶりにまず目をみはる。
ニューヨークの精鋭ドラマー、ドレ・ホチェヴァーによる集団即興・集団沸騰サウンドを踏み越えた脈動サウンド。
“レッド・ツェッペリンの音楽だけを演奏するピアノ・トリオ”であるZEK TRIOこそ理想的な芸術形態であることを、哲学的・心理学的・社会学的・神話論的・考古学的に証明する。
女の子が母親になって、白髪混じりになった今日もやはりサンベアを挙げるのだろうが、その次にすすめるのはこの『たくさんの音楽的天使たち』かもしれない。
他のレーベルでドル箱リーダー作勝負作をリリースするメンツをサイドメンに配置する。これが現在のECMレーベル、アイヒャー統帥の実力なのだ。
『WISE ONE』は津村和彦のトリビュートであるとともに現在の高橋知己カルテットの普段通りの音楽を素直に表現したものである。
このアルバム、ドニーは自分の曲作りのスタイルを維持しながらも明らかにボウイの影響を受けて一段階前進しているのがはっきり聞こえてくる。それはボウイの名曲、<A Small Plot Of Land>と<Warszawa>が収録されているからというわけではない。いや、むしろこの2曲のドニーの料理の仕方をまず特筆すべきだろう。是非ボウイのオリジナルと聴き比べて頂きたい。2曲ともボウイとブライアン・イーノの共作だ。つまりボウイがシンセに重点を置いていた作品の中からの選曲だ。ボウイ亡き後ドニーはボウイのオリジナルメロディーをその原曲と違う仮面にすげ替えて新しい音楽を生み出している。<Warszawa>に至っては、まるで<In A Silent Way>のような空気と思えばコルトレーンの背後霊まで付いてくる。
両者のこの演奏を聴いて、常に作曲者であるインプロヴァイザーと、現代音楽作曲家のスコア作品との明らかな違いがよく分かった。すこぶる興味深かった。
とりわけ、パーカー、マクリーン、オーネット、ブラクストン、そしてジョン・ゾーンにいたるまでのアルトの系譜をたどるようなジョン・イラバゴン(as) のソロは十分聴き応えがある。
13歳の子供がこれだけの演奏をするからと言う理由で注目されている、という事実からジョーイを正当に評価しない意見もよく聞く。しかし、彼のこのアルバムのトラックを他のピアノトリオのアルバムとシャッフルして、ある意味目隠しテストテスト的に流した時、ジョーイのトラックを『未熟』などのような印象を受けるだろうか。筆者にとって、新しさがないから面白くないという印象はあっても、このアルバムは筆者が楽しめるだけの要素を十分備えている。
トゥーツ・シールマンズが逝ってしまった。ブラジル音楽をこよなく愛したトゥーツの『The Brazilian Project』、その中からジャヴァンの名曲のひとつ、<Obi>を解説。ジャヴァンの卓越した作曲法と、トゥーツのハイレベルなブラジル音楽の理解度に焦点を当ててみた。
パンクとフリージャズ、どちらも革命の拠点のニューヨークに赴き直に体験したミュージシャンが持ち帰り、自ら革命戦士となることで、日本の音楽シーンに変革をもたらしたという事実は興味深い。
ともあれ、祝CDリリース! 待ち望んでいました。おまけに、ドン・モイエまでが来日し、生活向上委員会と共演するとは! 一体どんな演奏が繰り広げられるのか。ぜひともライヴ録音をリリース願います。
センシティヴなタッチとリリカルなプレイで、ヴァンガードのハウス・ピアニストと言える地位を確立したフレッド・ハーシュのヴァンガード・ライヴとしては4作目。Sunday Nightと銘打っているが、実際は金曜から日曜日の夜のベスト・テイクを現代ジャズ録音の名匠ジェイムス・ファーバーがヴィヴィッドに捉えた作品。
クリス・ピッツイオコスたちにとってポップとアヴァンギャルドの境界は存在しない。ジャズもパンクもヒップホップも前衛もすべて等しく「音楽」でしかないという生まれながらに血肉の中に刷り込まれた感覚を武器に世界を撹拌するからこそ、彼らの音は限りなく「リアル」なのである。
ニューヨークのジャズ・シーンに、また新たな才能溢れるピアニスト/コンポーザー/アレンジャーが登場した。斬新な4ホーンズのアレンジと、ユニークな作曲、エッジの効いたピアノ・プレイで、加藤真亜沙(p,kb,vo)は処女作とは思えない完成度の高いリーダー・アルバム『アンモーンの樹』で、鮮烈なデビューを飾った。
中堅トランペッターのデヴィッド・ワイスが、9年前にヴェテラン・プレイヤーを結集して結成したオールスター・グループ、ザ・クッカーズが、レーベルをスモーク・セッションズ・レコーズに移籍して5枚目のアルバムをリリースした。ワイス自身が、最もスピリチュアルで、激しいプレイと自負する快作である。
渋谷と市野が弾くメロディーは遠い幼い頃の記憶を思い出させてくれるようなどこかで聴いたことがあるようなメロディーが次々と湧いてくるので、初めて聴いても昔から聴いていたような錯覚におちいる曲である。
Nakamaによる二枚目のアルバム『Grand Line』は、音楽の「形式」と「内容」の相互作用にフォーカスしたユニークな試みだ。それは北欧のローカルな音楽情況にとどまることのない、かつてなく魅力的な実践である。
盟友梅津和時と袂を分かつことになった原田が、『失楽園』を著して有名なイギリスの詩人ミルトンが1644年、当時の言論弾圧に抗して刊行したパンフレットの書名『アレオパジティカ』に倣って「自由な表現」を求めたように、我々リスナーは「自由な妄想」を追求すべきことを提言したい。
辛島文雄のジャズ人生50年の軌跡を音にしたオールスター・ドリーム・セッション。
病と闘いながら創作意欲をかきたてて演奏活動を精力的に続けている辛島文雄の次作が何になるのか期待したい。
様々なフォーマットで、八面六臂の活躍を続けるデイヴ・ダグラス (tp) のエレクトリック・ユニット、“High Risk”の2作目。ジョナサン・マロン (el-b) とマーク・ジュリアナ (ds) の強烈なグルーヴの上で、Shigetoのエレクトニカがダークな空気を醸し出し、ダグラスのトランペットが闇を切り裂く。
シカゴ・ベースで活躍するサックス・プレイヤー、グレッグ・ワードが、10人編成のグループ、10 Tonguesと15人のダンサーを擁して録音した、ミンガスの『The Black Saint and the Sinner Lady』へのオマージュ作。
トリニダード・トバコ出身のエティエンヌ・チャールス(tp,per)が、トリニダード・トバコのセント・ジョセフ(旧名サンノゼ)、コスタリカのサンノゼ、北カルフォルニアのサンノゼを描いた壮大な組曲。
「チョビ渋」に収録された8曲は全てメンバーのオリジナル、中に<三角大福中>なんて、70年代の自民党総裁選のキーサードがあったりして驚くが、ジャジーなビツグバンドから和製ファンクに行きそうなナンバーまで。楽想に共通してどこか「和」のテイストが感じられるのはやはりどっぷりジャズにはつかっていない中高生ならではだろう
同タイトルのLPとCDには内容の異なる演奏が収録されている。全5曲トータル104分は、三日間に亘るCafe Oto公演の半分に過ぎないが、業師揃いのトリオの表現形態のダイバーシティーの片鱗を味わうことが出来る。
このアルバムは筆者にとって宝箱のようであり、どの曲を楽曲解説に選ぶか随分と迷ったが、よく吟味してみるとどの曲も奥が深く、簡単には楽曲解説などできないと考え始めた。そこで選んだのがマイルスの1974年のアルバム、『Get Up With It』の2曲目、<Maiysha>(マイーシャ)のリミックスだ。
ジェレミー・スタイグが亡くなってしまった
前作にも収められていたペルゴレージの古典曲の別バージョンを除く10曲は、すべて彼のオリジナルで、そのほとんどが書き下ろしという野心作・意欲作にして、そのテナー・タイタン振りを窺わせるに充分な好個の力作でもある。
異能のソプラノ・サックス・プレイヤー、ジェーン・アイラ・ブルームの長いキャリアで初めてのトリオ作品は、リズムとメロディが交錯する野心作だ。パートナーに選んだのはマーク・ヘライアス (b) とボビー・プリヴェット (ds) 。コードの束縛から解放され、ブルームのフリーキーなメロディが、柔軟なリズムにのって飛翔する。
トルド・グスタフセンがアフガニスタン人の父を持つケルン生まれの歌手シミン・タンデールと出会ったことで生まれたプロジェクト「Hymns and Visions」。取り上げているのは、グスタフセンが子供の頃から親しんだ賛美歌のパシュトー語訳とペルシャの神秘学者で偉大な詩人ルーミーの英訳詩。ルーター派賛美歌とスーフィーがひとつのアルバムの中で出会う。
ドラムとピアノの一対一、ましてや森山威男と板橋文夫となれば壮絶なバトルを想像するのが普通だと思うがここでの二人の問に対決はない、ただただ漂う哀愁のまにまに色彩ゆたか、陽気で明るい二人の親密さが伝わってくる。
ドイツ出身のギタリスト、セバスチャン・ノエルの3作目。ドキュメンタリー・フィルムや、傾倒している北インドの変拍子のリズム、尊敬する先達や、文学作品からの影響を、音楽で昇華した。
プエルトリコ出身のベーシスト、リッキー・ロドリゲスの10年に及ぶニューヨークでの演奏活動の成果が結実した野心作。ラテン・ミュージックと、コンテンポラリー・ジャズが融合し、さらなる未来を見つめる。
大坂の即興音楽ユニット.es(ドットエス)の橋本孝之のソロ・アルバム第3弾。全編ハーモニカのみによる演奏は、音楽に呼吸を取り戻す肉体オーケストラである。
トロントを中心に活躍する若手ジャズ・フルーティスト、ビル・マクバーニーの新作。多彩な選曲のジャズ・フルートに酔う
今回の楽曲解説はいつもの楽理的な立場と少し目先を変えてみたい。筆者がなぜこのアルバムを好んでいないかというと、それはこのバンドのタイム感に対して居心地が悪くてしようがないからなのである。
そこにピアニストとしての、あるいは音で語り、音を織り成していく詩人としてのメルドーの、いわばメルドーらしさが、この新作に息づいているということではないだろうか。
ここにある尺八の演奏は、サックスやトランペットなどが切り捨ててきた領域をたしかに有しており、楽器のアドバンテージを活かした即興演奏には可能性を感じる。
足かけ10年、つかず離れず程よい距離を保って活動を続けてきた二人のデュオ「ルース・ド・ソル」が練れてとても楽しい局面に入ったことを示している。
(4)<エスペランサ・ペルヂーダ>ではピアノのソロで思わずもれた渋谷のスキャットがなんとも微笑ましい、ついに渋谷がジョビンを歌った。 今回の渋谷はいつになく快活で自作の(7)<彼方へ>ではソロに合わせて口笛もきかれる。
スケール感たっぷりなジョアン・ボスコの<アマゾンから来た女性>、心地良い浮遊感を味わえるジャバンの<アヴィエ―ヴォ(飛行機)>等々、その力量を窺わせるに充分な好ナンバーが並ぶが、なんといっても今作の注目はビートルズの<ハロー・グッドバイ>とスティングの<フラジャイル>という2大ヒット曲。
2016年に逝去した、オーネット・コールマン(as,tp,vln)、チャーリー・ヘイデン(b)、マーカス・ベルグレイヴ(tp)に、デイヴィッド・マレイ(ts,b-cl)、ジェリ・アレン(p)、テリ・リン・キャリントン(ds)が結成したパワー・トリオが、豪快で繊細なプレイで、トリビュートを捧げる。先人達の遺志を継ぎ、現代ジャズを新たなステージに、押し進める。
アフロ・ビートと鋭いメロディが交錯するタイトなバンド・サウンドで、現代の混沌と希望をコンセプチュアルに描く、トランペットのニュー・スター、セオ・クロッカーの衝撃作。
日本でも精力的に活動しているニューヨーク・ジャズ・スタンダーズ・クァルテットの結成10周年記念作。緊密なインタープレイと、斬新なスタンダード解釈が円熟の境地を描く。
グンジョー色の求道者は、37年間音楽の輪廻を彷徨ったのちに、西から同類の求道者を迎え入れ、創造の神の霊感を再び受けて、音楽シーンに真を問うのである。即ちこれが<西の果てにはグンジョーあり>の理(ことわり)である。
イスラエル出身のテナーサックス奏者ヨニ・クレッツマーは、新作2枚においてますます凄みを発散する
ブラジルのパンデイロによる越境音楽
アーサー・ヴィントは、アメリカの原点の一つである西部のフロンティア・スピリットを、ジャズ・オリエンテッドな音楽で描くことに挑戦する。
インプロヴァイザーとしては高い評価を確立していたウィル・ヴィンソンが、コンポーザー/アレンジャーとしての才能を余すところなく発揮した野心作。
バンドメンバーも自らの音を知り尽くしたヴェテラン揃い。長年組んできただけあり、抑制の効いた大人のサウンドをじっくりと聴かせる。コルトレーンやマル・ウォルドロンの名曲のなかに”The Moon a Sphere”(track.4)などの自作も遜色なく融け合う。
ピーター・ヴァン・ハッフェルといえば 「Gorila Mask」、ロックテイスト溢れるアナーキーな咆哮がすぐさま思いだされるが、ギタリストのアレックス・マキシミゥ (Alex Maksymiw) と組んだこのデュオアルバムは、一見その対極にあるかのように見える。
故郷のオデッサでは劇場で女優としても活躍していたというだけあり、変幻自在なヴォイスの魔力、あらゆるシーンの演出能力とその引き出しの多さに、音楽を聴いているというよりは舞台芸術を楽しんでいるような錯覚に陥る。
昨年ソロ・アルバム『汝の耳で見よ(Look With Thine Ears)』をリリースし、21世紀の未来派芸術家として異彩を放つドイツ生まれのベース奏者パスカル・ニゲンケンペルの最新作。主戦場であるNY即興シーンの情報誌「New York City Jazz Record」から”NYシーンで最も冒険的で危険なベーシスト”と形容される。
ノルウェー音楽に特有の耽美な響きをまといながらも、それらを「日本的感性」とともに表現していく彼女の音楽は、卓越した演奏技術や作曲センスが輝く本盤においても、その特異なありようを随所に聴き取らせてくれる。
同時期を生きたスタープレーヤー松本英彦 (1626~2000) の陰に隠れがちだった宮沢昭だが、その実力は衆目の認めるところで、このアルバムのリリースで彼の存在が再認識されるに違いない。
70年代初期、ソウルグループ、スタイリスティクスによるヒットソング、<People Make The World Round>は、マイケル・ジャクソンやフレディー・ハーバードなどの手によってもカバーされた名曲。ディー・ディー・ブリッジウォーターは その名曲を自分のデビューアルバムでオリジナルとはかけ離れたモード・ジャズとして披露した。そのアレンジの素晴らしさを解析。
ピアノとツイン・ドラムという異色の顔合わせがホットでスリリング、三者入り乱れてのリズムの応酬の中からセンチメンタルなアケタのオーラが湧きたっている。
これまでにアルバムを出すたびに自己ベストの演奏を更新してきたアケタこと明田川荘之であるが本作『アフリカン・ドリーム』(AKETA’S DISK)にもアケタのベストが記録されている。
今回このアルバムを聴いて、矢沢朋子の素晴らしい音色と弧を描くタイム感でこんなにもミニマルミュージックを楽しめるものなのかと思ってしまった
ギル・エヴァンス(p,kb,arr)、ブルックマイヤー、サド・ジョーンズ(tp,arr)らからの強い影響を語るズアーだが、先人達をリスペクトし、クリストファー・ズアーは今、コンテンポラリー・ジャズ・ビッグバンドの新たな扉を開く。
トゥーツ・シールマンス(harmonica)の後継者と目されるグレゴア・マレのリーダー第2作。マレ自身とテリ・リン・キャリントン(ds)の卓越したプロデュースによって、けっしてオールスター顔合わせセッション的作品ではなく、ビッグ・ネームが適材適所に起用された、コンセプチャルかつ、現代音楽シーンの縮図がみえるアルバムとなった。とキャリントンの卓越したプロデュースによって、けっしてオールスター顔合わせセッション的作品ではなく、ビッグ・ネームが適材適所に起用された、コンセプシャルで現代音楽シーンの縮図がみえるアルバムとなった。
現代ニューヨーク・ジャズ・ビッグバンド・シーンにおいて、マリア・シュナイダー・オーケストラを始めとする重要ビッグ・バンドに於いてメイン・ソリストを務めるファースト・コール・プレイヤー、ライアン・ケバリー(tb)のユニット、カタルシスの第3作目。本作では自らが演奏してきた南米音楽からの影響を受けた音楽で、リスナーにとっての“審美的なイヴェント”をもたらしたいと抱負を述べる。
異能のチェリスト/ヴォーカリスト、マリカ・ヒューズのサード・アルバム。このアルバムは「自らの出身地、ニューヨークへのラヴ・レター」と語っている。ヒューズの多彩な音楽こそ、人種と文化の坩堝、ニューヨークを象徴していると言える。
齋藤徹による春の刺激、3作品
Live Report で「僕の胸を締め付けたのは<オルフェ>と<リトル・アビ>であった」と特筆した2曲が収録されているのは殊の外嬉しい。さらに嬉しいのは、<リトル・アビ>こと愛娘・菊地あびさん撮影のスナップが9点もブックレットに使用されていること。これはこれで立派な菊地さんのフォト・ストーリーになっており、父娘共演の珍しい1作となった。
こういう紹介文を書くと、年寄りが能書きを垂れるから若者がジャズから離れていく、としたり顔で若者寄りの意見を吐く御仁がいるが、ジャズはもともと社会と密接な関係を持ちつつ発展してきた音楽だ。ロックやフォークだってそうだった。バーミンガムの教会爆破事件やコルトレーンを知らずにこのアルバムを聴くとその意義は半減するだろうし、ミュージシャンが意図するメッセージも充分に受け取ることができないだろう。
スティールパン奏者の町田良夫とコントラバス奏者の千葉広樹が、ポルトガルを拠点に活動する打楽器奏者のジョルジュ・ケイジョを迎えて、2014年と翌2015年に都内のジャズ・バーで行ったセッションを収録したアルバム
繊細なタッチを持つリリカルなスタンダード・ソング・プレイヤーという印象が強かったリニー・ロスネスが、コンセプチャルなオリジナル組曲“Galapagos Suite”に挑んでいる
歌の魅力と Daniela Schächterのアレンジ能力、高度なピアノ表現を堪能できる一枚
ドイツの若手トランペット奏者マティアス・リンデルマイヤーのリーダー・アルバム
板橋文夫の書く曲にはストーリー性があり、曲ごとにそれぞれの物語が浮かび上がり、そしてそれらが集まって「FIT!+special guest」の短編集が出来上がった
キューバ出身で、様々なフォーマットの自己のグループや、ウォレス・ルーニー(tp)のグループで活躍するアルアン・オルティスが、満を持してリリースしたトリオ作品
即興というものはたしかに神出鬼没の面白さに依るものがおおいが、気心しれた年季がうみだすオープンな音の磁場には、マンネリズムとは対極にある如才なき自由がある。
ウラジーミル・タラーソフのLPレコードと本の話題
ポール・ブレイと言えば、我が恩師、ジョージ・ラッセルの『Jazz In The Space Age』でジョージが発掘したビル・エバンスとピアノの掛け合いをやっていたのを思うが、筆者にとってはむしろジミー・ジュフリをすぐに思い浮かべる。『The Life of a Trio』である。ジミーはジョージ・ラッセルと親しく、よく食事を共にしたのが懐かしい。ジミーとジョージの関係でポールがニューイングランド音楽学院に就任したのは1993年だったと記憶する。筆者がすでに卒業した後であった。
Nakama Records Adria
Clean Feed 358; Port
Inner Circle Music G
2015年初頭クリス・ピッツイオコスはヨーロッパを訪れた。1月7日Tabori、1月8日Dr. Seltsamにてノア・プント(b)とフィリップ・ショルツ(ds)とのトリオでライヴを行った。「Protean Reality(変幻自在の現実)」と命名されたそのトリオで1月8日の昼間にレコーディングされたのが本作である。
ウィリアム・フッカーは活動歴の長いドラマーである。13-14歳のころには、プロとして、ジャズだけでなくR&Bやロックのバンドでも叩いていた。
90年代初頭から、スティーヴ・コールマン(as)率いるファイヴ・エレメンツや、ウェイン・ショーター(ts,ss)グループで活躍したデイヴィッド・ギルモアは、リーダーとしても数々の意欲作をリリースしてきた。
昨2015年は「新宿ピットイン」の50周年にあたり、なにごとにも「ピットインイヤー」であった。 その50周年を記念して「新宿ピットイン50周年記念・新宿フェスティバル2015」が昨年の12月26,27日の2日間、のべ12時間にわたって新宿文化センターで繰り広げられた。
ジャック・デジョネットに加え、ヘンリー・スレッギル、ロスコー・ミッチェル、ムハール・リチャード・エイブラムスという、シカゴの前衛集団AACM(Association for the Advancement of Creative Musicians)を代表する面々の歴史的な共演。
優れたエンジニアでありギタリスト、コンポーザー・アレンジャー、挑戦的な音楽学者、といういくつもの近藤の顔が垣間みえ、みごとに融け合いながらも、精緻なアルバム構成は極めてスリリングで感覚的な歓びに満ちている。
人々を苦しめてやまない理不尽な力に抗する激情、抒情を見事なまでに音楽という形に昇華
10月8日にインパートメント社から国内配給が開始された我々ハシャ・フォーラの新譜、『ハシャ・ス・マイルス』の曲目解説を依頼されたのだが、実は困っている。自分の曲の説明を公開したくないのだ。
歴史的パフォーマンスを収録した今回のDVD、タンゴ・ファンのみならず全ての音楽ファン必見の内容である
ケルンを本拠地とするアン・ハルトカンプ(vo)とトーマス・リュッケルト(p)によるビル・エヴァンスへのトリビュート作品。タイトルの通り、ビルへのリスペクト、その音楽への愛情がやわらかな雰囲気となってアルバム全体を満たす。
マイルスの愛奏曲のアレンジにあたっては、「新しいことに挑戦せよ」とのマイルスの教えを守り、ブラジルのネイティヴなリズムに乗ってジャズのインプロヴィゼーションを展開する手法をさらに進化させた。
いわき市は東日本大震災の被害の中心ではなかっただろうが、原発事故では少なからず影響を受けたはずである。不破の胸には沈む市民の心を鼓舞したい気持ちが少なからずあったに違いない。その心情と行動がいわき市民を動かし大きなうねりとなりつつある。
一聴して肩肘はらない気楽なノリと身上としつつも、リー・コニッツという巨人をアメリカのジャズ史のうえに投影した、かなり練られた楽曲構成がみてとれる。
北欧のサックス奏者とNYのドラマーの野心的かつ独創的な演奏集
アメリカ内部からの「古き良きアメリカ」探索
偉大なテナーの先人の系譜に連なりながら己の声を獲得したテナー奏者、ヨニ・クレッツマー
天へ天へと心を折ることなく挑み続ける纐纈雅代のカタルシス
無理に一般概念にあるようなジャズにはしない、邦山の素晴らしさを充分に引き出せる構成に魅せられた。自分のピアノの誇示をするのではなく、まるでひとつの宇宙を完成させるような、そんなPooさんの演奏にも魅せられた。
筆者は恥ずかしながら「ロバート・グラスパー・エクスペリメント」以外の彼の活動をまったく知らなかった。今回の新譜、『カヴァード』について解題執筆の必要があって初めてブルーノート契約時の2作はトリオだったと学んだ次第。急いで試聴してみると、当時はもっとストレートなジャズ寄りの演奏をしていたのだと知った。10年前の話だ。
さて、本作『カヴァード』。グラスパーのピアノ、やはり上手い。ブルーノートに居るような柔らかさ。でも、揺れている。余裕が甘さにすべる。個性やアクはない。おれはピアニストとして立っているわけではないから、と、打音が言う。
同一メンバーでピアノ・トリオ吹込に再度挑戦したこの新作は、グラスパーという音楽家が現在では演奏家としてのスケールも能力もすべて飛び抜けていることをまざまざと示し出した。
トーマス・リュッケルトはケルンを拠点とするピアニスト。リー・コニッツとのプロジェクトなどで活躍しているが、ケルン・シーンの若手ふたりを擁したこの編成のトリオでは2012年の『Meera』に続いて2年ぶりのリリース
ジャンルを軽々とまたぐカヴァー力、入念かつフィーリング溢れる作/編曲能力、抜群の歌唱力、ステージ人としてのエレガントかつ華やかな押し出し良さなど、何拍子もそろったパワー溢れるディーヴァの誕生である。
20代のキメラは、1曲ごとにまるで異なる貌を見せる
ウォルターは社会的/技術的制度性に絡めとられた音楽にもういちど生きる場所を与えようとしている。少なくとも本盤では、それらが二重に「泥まみれ」にされた演奏として表されている。
ヨーロッパを拠点に活動するギタリストのパク・ハンアル Han-earl Parkが2年間NYに滞在し、様々なアーティストと交歓した成果を収めたアルバム『アノミック・アフェイジア(失名詞症)』は、タイトル通り”名称が失われる”即興音楽の極致を求めたドキュメントである。
このところトロンボーンの新譜ばかり手にするがどれも力作揃いだ。そんななか現在ハンブルクを中心に活躍する Christophe Schweizer (クリストフ・シュヴァイツァー)の新プロジェクト”Young Rich & Famous”のスケールの大きさ、達観ぶりがとりわけ新鮮だった。
本作はフリーミュージックの先駆者ともいえるJimmy Giuffre(ジミー・ジュフリー)へのオマージュ。ジミーに創作意欲を刺激されるミュージシャンは数多いが、このサミュエルの作品もまた、楽器間の縦横無尽なインタープレイを推進したこの先駆者にならうがごとく、多様な音の満ち引きに絡め取られるスリリングな一作だ。
エヴァンスからベネット、ジョー・ヘン、ハンコック、マイルス等々永年ジャズにかかわって知った喜びを自らのものにして鍵盤から導き出したもので辛島文雄の人生の重み、人格が詰まっている。そして、なによりも一音一音に沖縄の空気の中でピアノを弾く喜びが音の端々から活き活きと伝わってくるのがうれしい。
NYハードコアジャズの新星クリス・ピッツイオコスが2015年前半にリリースした2作のアルバムは、「ジャズ」の概念を拡張するニューヨーク即興シーンの鮮烈なドキュメントである。
2014年に行われた「AVフェスティバル」における、ジョン・ブッチャーとロードリ・デイヴィスの共演を収録したこのアルバムは、複数の聴覚が具体的に捉えた遺跡の響きをライヴ会場において再構成したもの、ということができるだろう。
このアルバムを聴くわたしたちが巨人の名演を見出してしまうということ――それはジャズの本質としての即興性/一回性や、演奏者に固有の音楽といったものに対して、録音物を通して心酔していた聴衆が、果たして本当は何を聴いていたのかということを明らかにするための、ジャズの側からの苛烈な批評として受け取ることができるのではないだろうか。
本作に収められた進歩的な感性と意欲的な実験精神が明らかにされた今こそ、2003年に没するまでジャズ史の裏街道を歩んだこの不屈のアヴァンギャリスト、フランク・ロウへの評価をアップデートする必要があるだろう。
収められた7つのトラックはすべて一発勝負の即興演奏。2013年1月と5月にブルックリンのライヴハウスで録音された。切れ味鋭いサックス、ギター、ドラムが三つ巴で絡み合うオープニングから、20分に亘る長尺のエンディングまで、息つく間を与えない鮮烈な演奏が繰り広げられる。
佐藤允彦の戯楽シリーズの3枚目は子供の頃に聞いた唄。軽快にピアノを弾く佐藤、ベースの加藤真一もドラムの村上寛も手慣れた捌き、淡々と楽しげな演奏。難しいこともさりげなく弾きこなし、さらにインプロヴァイズしてしまうスゴさ。まさに「戯れ」「楽しむ」、すなわち「戯楽」である。
封印された音塊が解放されることで、創造主である演奏家自身の魂もその先へ解き放たれることは確かだろう。日本地下音楽の秘められた至宝、陰猟腐厭の「その先」を見届けたい気持ちが無性に高まっている。
30年以上昔に記録された演奏だが、その独自性は現在、いやさらに30年後に聴いても失われることはないだろう。音楽ジャンルは勿論、時代からもはみ出した異端の演奏行為と意志の記録である。
高柳がギターを弾(はじ)き、叩き、引っ張り、締め上げ、擦(こす)る。ギターが断末魔の悲鳴を上げる。さて、この音世界こそわれわれのリアルな生き様の反映ではないのか。蔓延する不条理に苦しみのたうち回る..。
老若男女、クラシック・ファンもジャズ・ファンも等しく楽しめるジャズのエッセンスがたっぷり詰まった痛快なアルバムである。素材は小中学校の音楽鑑賞の時間に必ず聴かされる<ボレロ>と<展覧会の絵>。
ピアノ・テクニシャンやエンジニアをはじめピットインミュージックのスタッフが沖縄まで出かけてホール録音したもので、これまでのピットインでのライヴとは空気感が違う。沖縄でのツアーの際、何度かこのホールで演奏した辛島がピアノやホールの響きが素晴らしく、心に残っていて、地元の関係者の協力もあって今回実現したのだそうだ。
ヴォカリーズ、しかもインプロヴィゼーションは苦手、という喰わず嫌いも、タイトル・チューンのブルースを聴けば彼らのすばらしさに魅了されるはずである。
いやさ、当時ブレイはECMアイヒャーの音の仕立てに本心は合点が行ってなかったんだと思うよ、
沈黙が常にあり、透明の空気がそこにある。3人は「沈黙」の感覚を共有し、巧みに音を使うことにより「沈黙」を表現しているというのが正しいかもしれない。
アンドリュー・ドゥルーリーによる、かなり毛色の異なる2枚のアルバムからは、音楽の可能性を徹底的に突き詰めると同時に、その探索の領域を軽やかに切り替えていく彼の姿が浮かび上がってくる。
約2時間の演奏には英国ジャズが辿り着いた表現の高みが示されている。この2年後にエルトン・ディーンは惜しくも帰らぬ人となり、デレク・ベイリーとロル・コクスヒルも天国へ召されてしまったが、歴戦の闘士が不在でも英国ジャズの前途には希望の光が差している。
このアルバムこそCDを買わないと関根の全貌や仕掛けを楽しめないわけで、あるいは、iTunesなどを通した曲買い風潮に対するアンチテーゼという深謀遠慮なのかもしれない
大坂の即興音楽ユニット.es(ドットエス)の橋本孝之の初のソロ・アルバム(2014.2)。暗闇に白い煙のように立ち上るアルトサックスが無数の色彩を描き出す渾身のアルバム。
大坂の即興音楽ユニット.es(ドットエス)が、日本ノイズ界の重鎮、美川俊治(Incapacitants/非常階段)と共演したライヴ・アルバム。それは即興演奏の未来への希望の光を見出す一期一会の三者が描き出した結晶となった。
SABUもミシャもモンクがとても好きなのだ。そりゃー、好きなんてもんじゃないですよ。初来日(1963年)の時から言っているもんね。ミシャはモンクの後継者だよ。コピーやらずにあれだけモンクのスピリッツを出せる人ってほかにはいないでしょ、世界でいないよ。
一番楽しめたのは『ハノン』であった。というのも、筆者自身、子供の頃、嫌でたまらなかった機械的な指の練習曲ハノンがこんなにウキウキと楽しく弾けるなんて!というリアルな驚きが大きかったからだろう。
このアルバムにはミシャとサブの他にもう一匹(!)共演者が登場する。コオロギである。コオロギはミシャのピアノに限って共演を買って出る。なに、サブのドラムが入ってくるとコオロギの声がマスキングされて聞こえないだけなのだが。
ジャズかどうか、クラブ系かどうか、などジャンルは関係なく、ここに刻まれた演奏は、ふたりの求道的表現者が全身全霊をかけて交感した、紛れもない真の即興演奏の記録に他ならない
宮澤賢治の没後80年を契機に発表された作品だが、富田の中では何十年にもわたって育まれてきた思いの集大成である。300人に及ぶオーケストラとコーラスを駆使した壮大なドラマの展開を予想されがちだが、初音ミクというヴァーチャル・シンガーを起用したことにより一挙に浮力が付いた。
大阪のコンテンポラリー・ミュージック・ユニット.es(ドットエス)。21世紀も10年過ぎてこれほど生々しく自己主張する激しい音の渦が生まれるとは、まさに驚異的である。さらにこのエモーションの塊のような演奏が、現代美術ギャラリーから生まれてきたという事実が興味深い。
待てど暮らせど彼女たちに対抗する若い才子が現れないとなれば、潮目が男性側に来ていないのだと思うしかないか。あきらめかけていたところに飛び込んできたのがこのオカベ・ファミリー(Okabe Family)を名乗るユニットのデビュー作である。といえばいかにも恰好いいが、実際、このユニットの音楽は目をみはらせるほど新鮮だった。
斬新で清新,豊かな質感を持つ上質音楽であると同時に、ジャズ・ファンのブラジル音楽入門盤としてもハナマルと言えそうで、ワイン等を片手に、一人で寛ぎながら愉しむのにも好個の作品とお勧めしたい
実際に全曲を繰り返し聴くことで、ここでの高度なオーケストレーションとアンサンブルの磁力に次第に引きつけられる、そんな快感を私は久し振りに体験した。
このDVDはミャンマー国内を対象としており、ここ数十年のポップスの大人気はそれはそれでかまわないが、古典音楽にももっと気軽に親しんでほしいという願いをこめてあります。
ピアニスト矢沢朋子の活動は、これまではエレクトロニクスを用いた新しいメディアを使った実験的傾向の作曲家とのコラボレーションが多かったが、本作でとりあげているのは近現代ヨーロッパの神秘主義的傾向を示す作品群である。
国際的にもすでに高い評価を得ている“Dislocation”だが、その名称がふくみ得るところの、規定からの転置・逸脱といった堅苦しい想念に捉われる隙を与えない。もちろん瞬間は増幅して非常な強度をもっており、その持続が聴いている者の時間感覚を麻痺させるが、単純にノリに還元される引き際の良さがある。
名古屋発プティ・レーベル第一弾 (経緯は高平哲郎氏のライナーを参照されたい)。タイトルからも彷彿されるとおり、肩肘張らないスタンスのアルバムである。しかし、『悪くない』の反意語が『良くもない』には決してならないところが流石である。和み系とは程遠い、各々の個性が発するどうにもならない成熟が生む余裕だ。
そんなことは忘れて、これ、実にいい。ヴィオラとマンドリンの音色の異化効果もあってか、単に作品集という意義を超えてバトンされるモチアン・ミュージックのコアが聴こえるものだ。
佐藤允彦による「戯楽」第二弾のジャズ出囃子集。寄席に見立てたアルバム構成になっていて、村上の叩く<一番太鼓>で始まり、<前座の上り>、そして古今亭志ん生の<一丁入り>と続く。
たしかに、スケール感もあれば、突破力もある。ピュアネスはいうまでもない。しかもそのどれもが並外れたレヴェルに達している。
この演奏は、NYの老舗ジャズ・クラブ「バードランド」が60周年を迎え、60年前のオープニング・ナイトに出演したリー・コニッツ(もうひとりの現役はロイ・ヘインズ)にカルテットを組ませて1週間の公演を企画したもの。
「憂歌団」のヴォーカリスト(だった?)木村充揮の新作である。ナット・キング・コールの世界を予測させながらいつのまにか完全に木村充揮の世界に取り込まれていた楽しいひとときだった。
考え抜かれたコンセプトと手法。ポップなナラティブ。そして大胆な遊び心。最初は「謎」でしかなかったが、本作を知ればしるほどバーンというクリエイターの懐の深さに魅せられてしまう。
7年後の1989年、ジャズ・ベーシストとなった新婚の永田はサックス奏者の早坂紗知を伴って再びその地に立った。人生の伴侶であり、音楽の同志でもある早坂にジャズ・ミュージシャンとしてのスピリットの原点を共有させたかったのだろう。
今やピアソラの音楽とミルバの歌が結合した時の真価に開眼。もし、ピアソラがミルバを念頭にオペラを作っていたら、21世紀に新しいオペラの水脈がひとつ生まれていたかもしれない。
互いをよく知った音楽家同士だからこそ、より自由になれるということもある。力で押し切ることもなく、まさに緩急自在、スポンテニアスな演奏とはこういうことをいうのだろう。
ベテラン三上クニのアレンジとリード、小松誠司のサポートで新進ヴァイブラフォン奏者有明のぶこが120%の快演を果たしたアルバムと聴きましたが如何でしょうか。
それまでの即興演奏における個の表現とは異なった世界観でサウンドが構築されていく。サウンド・インプロヴィゼーションが耳新しかった時期は既に過ぎたが、即興演奏の明日を占う音がここにある。
ジャケットの写真はそのピアノを弾く(?)猫Pief。ジャケットを見ながら「これは僕の猫でねぇ。この猫には多くのことを教わったのだ」と呟いていたメンゲルベルク。
アルコとピッチカートを使い分け変幻自在に泳ぐレアンドレ、特殊奏法は使っていないにもかかわらず多彩なサウンドを繰り出す佐藤、即興演奏としては各トラックは短いが、それぞれが別の表情を持ち、高次元で繰り広げられるインタープレイはイマジナティヴだ。
富樫宅にあるエレクトリック・ピアノ(Roland HP-900)をスタジオに持ち込んでの録音。富樫のイメージが生まれた音色と響きにふれ、ふわりと漂うその余韻に、立体的な音響空間を創出する希有なパーカッショニストとしての姿が重なる。
彼女の音楽と向きあう凛とした姿勢は心地よい。特有の強く張られた弦と男性的ともいえる力強いピッチによるサウンドは潔い。が、箏ならではのゆらぎが情感を投影し、密やかなエロティシズムも付加するのだ。
Masahiko Plays Masahiko三作目は、フリー・インプロヴィゼーションの余白がたっぷりある作品群。作品にあるモチーフを一種のマテリアルとして、さらなる創造的空間を構築する鮮やかな手腕は佐藤ならではのもの。しかし、この空間の捉え方、音色に対する美学は、富樫の世界でもある。
しばらくぶりに聴くと驚くほどうまくなっている。決して誇張ではない。主婦でも、一児の母でもあるというのに、大したものだ。
イスラム教が世界中で議論の的になった場合、人々がどのようにこの宗教を引き継いでいるか知る必要がある。それは全くテロリズムや暴力とは無関係だ。そして今このアルバムを発表する時が来たと思う。